【今週はこれを読め! エンタメ編】心に響く名作新訳『チップス先生、さようなら』

文=松井ゆかり

  • チップス先生、さようなら (新潮文庫)
  • 『チップス先生、さようなら (新潮文庫)』
    ジェイムズ ヒルトン,Hilton,James,朗, 白石
    新潮社
    440円(税込)
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 この小説を知ったのは高校の英語の授業で。当時はディケンズやブロンテ姉妹の作品に匹敵する知名度の小説というイメージを持っていたのだが、この本のことを思い出したのは実に四半世紀ぶりくらいである(まあ、『クリスマス・キャロル』や『ジェイン・エア』についてもそうしょっちゅう思い出すわけではないのだが)。本も読んだし、「アラビアのロレンス」を観てピーター・オトゥールに熱を上げていたこともあって映画版も観たのだが、当時はそれほど印象に残っていなかったのだなと思う(オトゥール版はなんとミュージカル仕立ての作品だったということもまったく覚えていなかった。本書の解説はこの「今週はこれを読め!」コーナーの【ミステリー編】担当でおなじみの杉江松恋さん。「チップス先生」をはじめとするヒルトン作品の映画化事情についても詳しいので、お読み逃しのありませんように)。

 それが今になってこれほど心に響いてくるとは思わなかった。実際のところ『チップス先生、さようなら』が古典的名作であることに間違いはない。これは19世紀後半から20世紀前半の激動の時代に、とある学校を舞台に生徒とともに歩み続けたひとりの教師の物語。チップス先生はブルックフィールド校で古典を教えている。ブルックフィールド校は「いっぱしの紳士を気どった者が"そういえば、どこかで耳にした覚えがある学校だ"と打ち明けるたぐいの学校」で、チップスは「それなりに一目置かれはするが、決して傑出した逸材ではな」い教師。現代人の感覚では教師によるいじめではないかと指摘されそうな言動もあるのだが(生徒のことを他のクラスメイトの前で「鈍才」と言ったりする)、根本的には思いやりにあふれた人物だ。厳格でありながらユーモアに満ちあふれてもいて、生徒ひとりひとりの名前を引退した後も覚えている。みなさんの心の中に、そういった不器用だけど思いやり深い先生の記憶があるとしたら、きっといつも懐かしく思い出せるような学校生活を送られていたのではないかと思う。

 今回再読してみて改めて胸に迫ってきたのは、教師と生徒の心の通い合いの素晴らしさはもちろんのこと、戦争が及ぼす暗い影についてだった。チップス自身はずっとブルックフィールドに留まり何人もの卒業生を送り出してはまた新入生を迎え入れるという、大きな変化とは無縁の教師生活を送っていた。しかし、巣立っていった生徒たちは世間の荒波にもまれ、中には戦地に赴くことになった者もいた。兵士となったのは生徒だけではない。ドイツ語教師だったシュテーフェルはチップスよりも30歳年下だったが、ふたりはよい友人同士だった。ある日チップスのもとに、戦争が始まって間もなくドイツへ帰国していたシュテーフェルが西部戦線で戦死したとの知らせが届く。戦争が長引く間に戦死した卒業生たちの名前を在校生の前で読み上げるのはチップスの役割となっていたが、彼は続けてシュテーフェルの死について語った。何人かの生徒は"西部戦線で亡くなったということは、その先生はドイツ軍の兵士であって他の戦死者と一緒に名前を読み上げるのはおかしい"と気づく。彼らが騒ぎ立てなかったので大ごとにはならなかったが、"敵に肩入れしている"と問題視される可能性もあったろう。戦火の下、世界のほとんどがバランス感覚を失っていたが、威厳と寛容の精神を教えるのは自分のような者だけになし得ることだとチップスは考えていたのだ。

 堅物には違いないが、チップスにはロマンスもあった。妻キャサリンとの日々を描いたシーンはいずれも美しい。彼らの出会いは山。女性が救助を求めていると勘違いしたチップスが足を滑らせて捻挫してしまい、結局その女性・キャサリンに助けられたというのが馴れ初めだ。女性慣れしていなかったチップスにとって、中でも当世風の女性(政治に強く関心を持ったり、女性の投票権や大学入学が認められるべきだと考えたりするようなタイプ)が苦手だったし、キャサリンの方も旧弊な考え方にとらわれた中年男など退屈に違いないと思い込んでいたのだが、親子ほども歳の違う彼らはあっさり恋に落ちた。お互い自分にないものに引きつけられたということなのだろう。

 キャサリンとの結婚も生徒たちとの触れ合いも、金持ちの子息を入学させようということにばかり心を砕く新校長との軋轢さえも、すべてチップスの人生を彩ったできごとであった。確固とした自分を持って生徒たちを指導し続けたチップスが、教職を退いたいま暖炉の火を見つめながら思うことは...?

 著者のジェイムズ・ヒルトンは、1900年イギリス・ランカシャー生まれ。本作は、雑誌掲載の〆切まで2週間しか猶予がない中、わずか4日間で一気呵成に書き上げられたものだという。彼は他に、理想郷の代名詞となった〈シャングリ・ラ〉という地名を生み出した秘境冒険小説の傑作『失われた地平線』(河出文庫)など、後世に残る作品を発表している。ハリウッドでは彼の小説が次々と映画化され、人生の後半はアメリカに生活の拠点を移していた。チップス先生とは違って、著者本人は新しいものをどんどん取り入れる人物だったようだ。『チップス先生、さようなら』は新潮文庫の「Star Classics 名作新訳コレクション」の1冊。旧訳には旧訳のよさがあることは重々承知していますが、特に初めて読む読者は、敷居の低い新訳からその作品に触れてみられるのもいいのではと思います。

(松井ゆかり)

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