【今週はこれを読め! エンタメ編】日舞の世界に飛び込んだ若者の青春〜安倍雄太郎『いのち短し、踊れよ男子』

文=松井ゆかり

1. 洋食より和食の方が好きになる。
2. 時代小説の良さが心に染みるようになってくる。
3. 歌舞伎を観に行きたくなる。

 和ものについての心理的変化を挙げてみた。一般的に加齢とともに生じる変化で、番号が大きくなるに従ってより上級者向けとなる内容であるように思う。では、"日本舞踊に興味がわいてくる"などはどうだろう。個人的には4以上の、かなりなハイクラスの事例と考えるがいかがだろうか。

 本書は、20歳を迎える前に突然日本舞踊の世界に飛び込んだ岡崎駿介が主人公。たいていの人々が中高年以降にたどり着く(一生無縁の人もいる)心境にこんなに若いうちから到達しているとは、なかなか見どころのある若者である。たとえそれが下心から発生したものだとしても。駿介は大学1年生。強面の外見とは裏腹にいわゆる陰キャで、友だちもほとんどいなければ女の子とつきあった経験もない。そんな駿介が授業で必要な本を借りに図書館のある区の生涯学習センターを訪れたところ、浴衣を着た美少女に声をかけられる。日本舞踊を習っているその少女・早川清香はこの後ホールで発表会があるとのことで、たまたまポスターを眺めていた駿介に「日舞に興味おありですか?」と声をかけてきたのだった。清香の誘いに舞い上がった駿介はそのままホールについて行くが、そこに自分の人生を変える出会いが...!

 駿介が観始めてしばらくは小学生の出番が続き、微笑ましくはあっても踊りと呼べるかもわからない発表が続いた。それが中学生が登場し始めると徐々に踊りのレベルが上がった、「動きが滑らかで、表現も豊富だ。少なくとも、何の役を演じようとしているのか、素人が見ても分かるくらいには」。高校生の踊りも終わり、いよいよ清香が静御前を演じる「吉野山」が始まる。実は「吉野山」は、まだ家族がバラバラになる前の駿介が幼い頃に両親と歌舞伎座で観た思い出の演目。清香とともに源義経の忠臣・佐藤忠信として舞台に登場したのが、日舞の師範の家に生まれ幼い頃から踊りのすべてをたたき込まれてきた和泉(芸名:椿)吉樹だった。

 "裕福で家柄もよい家庭に育っているのに幸せだと感じられない"という人の存在を、私は長いこと理解できなかった。実家が貧乏だったため、「お金の心配をせずに生きられるのに不満があるなんて信じられない!」という気持ちだったからだ。しかし大人になってみると、"お金があるのはありがたいことだが、それ以上に大切なものはいくらでもある"ということがわかってきた。吉樹の抱える悩みについてここでは事細かには列挙しないが、ひょんなことから芸事の世界に飛び込んできてしがらみ的なものとは無縁にのびのびとふるまう駿介に嫉妬を感じる気持ちは想像できる。もちろん駿介にしてみれば、サラブレット然とした出自と美形ぶりと何より踊りの才能のすべてを手にしているように思える吉樹に羨望の念を抱くのは当然といえよう。反発し合いながらも互いを認め、なくてはならない存在になっていくふたりの、成長物語であり友情物語である。吉樹以上に巧みな踊り手だった姉・瑛利奈の存在も、この物語に厚みを持たせていると感じた。もう取り返しがつかないと思ったところからでも、また人間は前に進み出せる。彼らはそう読者に教えてくれる。

 著者の安倍雄太郎さんは、第18回小学館文庫小説賞受賞作『君のいない町が白く染まる』で、2018年にデビュー。なんとご自身が、日本舞踊の藤間流の名取でいらっしゃるとのこと。ホームグラウンドでもある世界を題材にして書かれた本書が3作目ということで、次にどのような作品を発表されるのかが注目されるところであろう。得意分野を深化させるのか、まったく違った題材を選ぶのか。いずれにしても、次回作を楽しみにしております。

(松井ゆかり)

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