【今週はこれを読め! ミステリー編】ポアンカレの曾孫が数学者殺人事件に挑む!『捜査官ポアンカレ 叫びのカオス』

文=杉江松恋

  • 捜査官ポアンカレ ―叫びのカオス― (ハヤカワ・ミステリ)
  • 『捜査官ポアンカレ ―叫びのカオス― (ハヤカワ・ミステリ)』
    レナード・ローゼン,田口俊樹
    早川書房
    2,090円(税込)
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 小説の中にはパッケージとしてのまとまりがいいものと、中身が包みきれなくてはみだしかけているものと二種類ある。

 レナード・ローゼン『捜査官ポアンカレ 叫びのカオス』(ハヤカワ・ミステリ)は後者の代表格のような作品である。出だしからして派手だ。アムステルダムにあるホテルの最上階で爆発が起き、宿泊客が死亡する。使われたのは普通の爆薬ではなく、なんとロケット燃料だった。事件の特殊性から国際刑事警察機構(インターポール)に捜査のお鉢が回ってきて、アンリ・ポアンカレ捜査官が出馬することになる。犠牲者と彼には偶然の共通点があった。死亡したのはジェームズ・フェンスターという数学者、アンリもまた、ポアンカレ予想などの業績で知られるジュール=アンリ・ポアンカレの曾孫にあたる人物だったのである。さらにフェンスターの遺品の中からは、謎めいたフラクタル(部分と全体が相似関係になっている)図形の写真が発見される。

 爆発のあった建物の向かい側のホテルには、死亡した数学者の元婚約者マドレーン・レーニアが投宿していた。部下のパオロ・ルドヴィッチは、彼女を拘留して取り調べようとするが、法規に則った手続きを重んじるアンリは許さない。それが仇となり、レーニアは貴重な証拠を隠滅した上で姿を消してしまうのである。失意のアンリの元に、さらに悪い情報が届けられる。彼が逮捕した戦争犯罪者スティポ・バノヴィッチが、アンリの一族を皆殺しにするようにという指令を獄中から放ったというのだ。そんな不安な状況下で、アンリは雲をつかむような捜査を行うことを強いられる。

 この序盤の展開だけでも見所が多すぎてめまいがしてくるのだが、これに加えて過激な手段で南北問題を解決しようとする政治団体や、8月15日に世界が終末を迎えると訴え、無差別殺人でその日の到来を早めようとするカルト集団が出現して、物語はさらに混迷の度合いを深めていくことになる。

 これは作者のデビュー作だが、正直言って第一部はつまらない。原題(All Cry Chaos)、すべての要素がわめき散らしているようなカオス状態の中でアンリ・ポアンカレという主人公も埋没してしまっており、ちょっと読み通すのが辛いような感じなのである。しかし第二部からがらりと様変わりする。第一部の最後でたいへんな事態が起き、アンリがただならぬ状況の中で孤軍奮闘することになってしまうからだ。彼が向き合わなければならないものが何であったのかは、そこでようやく判明することになる。単純に言ってしまえば憎悪だ。力を持った者が他人を押さえつけようとする。虐げられた者は力によってそれに報復しようとするが、そのことがさらなる悲劇を生んでしまう。その連鎖こそが、おそらくは作者が描き出したかったものなのだ。その中で誰にも頼ることなく事態に立ち向かわなければならなくなった主人公の姿には胸を打たれる。そこからの展開はオーソドックスな冒険小説のものである。

 主人公を大数学者の曾孫にしなければならなかった必然性があるかというと、ちょっと首を傾げてしまうところがある。そして序盤はもたつく。そういった欠点はたしかにあるのだが、デビュー作ということでお許し願いたい。最初はなんでもかんでも詰め込みたくなるものなのですよ。初老の捜査官のがんばりを胸に迫る筆致で描いたということで加点一、そして大胆な仕掛けを行って読者をびっくりさせようとした(びっくりする落ちがある)稚気にもう一点。総合すれば極めて満足度の高い冒険スリラーだった。

 あと、これは明記しておいたほうがいいと思うが、数学の素養は読むのに全然必要ない。たぶん編集者も「数学的事件ということを前面に押し出したほうがいいのかなあ、でもそれだと読者を限定するかもなあ」と迷いながら邦題をつけたのではないか。

 いやいや、ポアンカレ予想とか知らなくても大丈夫だから!
 自分は文系だからなあ、という理由で尻込みした読者がいるかもしれないので、声を大にして言っておきます。

(杉江松恋)

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