【今週はこれを読め! ミステリー編】フェリックス・フランシスの〈新・競馬シリーズ〉誕生!
文=杉江松恋
〈私〉こと、ニコラス・フォクストンは元騎手のフィナンシャルアドバイザーだ。ある日、同僚のハーブ・コヴァクが、彼の目の前で殺されてしまう。至近距離から銃弾を三発、心臓に二発、頭部に一発。ハーブが倒れ伏したときにはすでに、群衆の中に襲撃者は消えていた。
それは明らかにプロの手口であった。死後になって、さまざまなことが判る。ハーブがなぜかフォクストンを遺言執行人に指名し、唯一の遺産相続者にもしていたこと。しかしながら故人には巨額の借金があり、インターネットのギャンブル・サイトで作ったものだったこと、などなど。そしてハーブのポケットからは、謎めいたメッセージを記した紙切れが発見された。曰く「言われたとおりにするべきだった。いまさら後悔しても遅い」と。
まったく知らなかった同僚の側面を知って戸惑うフォクストンを嘲笑うかのように、悪夢のような出来事が降りかかってくる。前触れを告げたのは、とあるゴシップ紙が掲載した記事だった。フォクストンはビリー・サールという顧客から、投資を解約して十万ポンドの金を自分に支払うように強い態度で求められていた。その出来事を目撃した者がいて、ハーブの死に結びつける邪推をしたのだ。それだけではなく、恋人であるクローディアの態度が急によそよそしくなり距離をとり始める。まるで何者かがフォクストンをペルソナ・ノン・グラータ、好ましからざる人物に認定したかのようだった。そして、第二の殺人が起きる。
イースト・プレスから刊行された長篇『強襲』は、イギリスの作家フェリックス・フランシスが2011年に発表した、初の単独名義の作品である。「初の」としたのには意味がある。『強襲』以前に4冊、共同執筆者として名前がクレジットされた作品があるからだ。邦訳題名は『祝宴』『審判』『拮抗』『矜持』(いずれも早川書房)、フェリックスの父ディック・フランシスの最晩年の著作である。
私は競馬にまったく関心がなく、わずかにディック・フランシス〈競馬シリーズ〉を通じてのみ接点をもってきた。ご存じない方のために書いておくとフランシスは元騎手の英国作家で、引退後に物書き業を始めた人物である。シリーズといっても主人公が共通しているわけではなく、個々に独立した巻き込まれ型のスリラー小説だ。ただ、主人公が競馬界の周辺にいるという共通点があるのでそう呼ばれているわけである。
そんな風に競馬の知識が皆無であるのになぜフランシスを読んでいたかといえば、答えは簡単で滅法面白かったからだ。〈競馬シリーズ〉は冒険小説の王道を行く作品であり、手枷足枷をはめられた主人公が絶体絶命の窮地に陥り、そこから脱出を図るというのがプロットの骨子になっている。主人公を救うものは自身の頭脳や肉体で、才覚を働かせたり、肉体的な労苦を己に強いたりすることで彼は危難から逃れる。また、そのためには自身の恐怖心や敗北感などを克服しなければならず、自問自答や内省を行う場面がアクションには必ず付帯した。それゆえに冒険者としての主人公の魅力が引き立ったのである。
約半世紀にわたってフランシスはこのシリーズを書き続けたのだが、まったく一人だったわけではなく、執筆協力者がいたことが判っている。2000年に亡くなった妻のメアリーと、息子のフェリックスだ。このうちフェリックスは共同執筆者として公式に認められているが、メアリーがどこまで関与していたのかは不明である(一説には、執筆のかなりの部分を担っていたのではないかとも言われている)。晩年に関して言えば上に書いたようにフェリックスの寄与する部分が大きかったはずであり、〈新・競馬シリーズ〉の書き手として独立したのは当然のことであった。
〈競馬シリーズ〉のうち5冊に出演しており、ディック・フランシスには珍しいシリーズ・キャラクターとなったのが、『大穴』『利腕』の主人公シッド・ハレーだ。ハレーはやはり元騎手で、騎乗時の自己で片腕を失う怪我を負った。『大穴』は彼がその心的外傷を克服するまでの物語であり、『利腕』は勇気を取り戻せたはずのハレーが再び危機に陥り、覚悟の程を問われるという展開であった。『強襲』の主人公フォクストンには、落馬により首の骨を負ったために騎手を引退したという過去があり、そのために格闘に耐えられない身体になってしまったという弱点がある。おそらくこのキャラクターは、シッド・ハレーを原型にして作られたのではないだろうか。父のシリーズを引き継ぐにあたり、最も人気のあったキャラクターの面影を借りたわけですね。
その狙いは間違っていなかった。次々に襲い掛かる危機と弱点の多い主人公という要素は、やや図式的ではあるものの、見事にスリルを醸し出している。まあ、模倣なのだが、最初は模倣でもいいではないか。主人公がフィナンシャル・プランナーに設定されていることなど専門知識がふんだんに盛り込まれているほか、実に賑やかに話の要素が盛り込まれている。華やかだし、安心して読める。すでにフェリックスは本書の後に三冊の長篇を書いているようだ。もしかするとこの後、父を凌ぐ書き手になるかもしれない。だから〈競馬シリーズ〉の再開ではなく、〈新・競馬シリーズ〉の誕生と言おう。冒険小説ファンが待望して止まなかった「期待の新人」の登場である。
(杉江松恋)