【今週はこれを読め! ミステリー編】先読みできない失踪ミステリー『遭難信号』

文=杉江松恋

  • 遭難信号 (創元推理文庫)
  • 『遭難信号 (創元推理文庫)』
    キャサリン・ライアン・ハワード,法村 里絵
    東京創元社
    2,642円(税込)
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 失踪ミステリーの新たな大収穫。

 世界はここに在るものと無いものでできている。しかし、在るものの本当の価値をわかっている人はごくまれだ。それがなくなって初めて、自分にとっていかに大きな存在だったかに気づくのである。その喪失感を主題にしたのが失踪ミステリーだ。いまここにいない人が物語の本当の主人公なのである。

 キャサリン・ライアン・ハワード『遭難信号』(創元推理文庫)で姿を消すのはサラ・オコンネルという女性だ。一週間のスペイン・バルセロナ出張が入ったと言って彼女は恋人のもとから旅立った。それきり一切の連絡がつかなくなった。

 残された恋人、アダム・ダンが語り手を務める。メールにまったく返信がなく、電話をかけても留守番電話になってしまって応答がないことに彼の不安は募っていく。しかもサラは、両親とも連絡を取っていないようなのだ。いったい今何をしているのだろう。そして何を考えているのだろうか。アダムは彼女のネット口座を覗いて宿泊先を突き止める手段があることに気づく。しかしバルセロナのホテルへの電話は、彼女がそこには一泊しかしていないという事実を明らかにしただけだった。

 さらに驚きは続く。アダムの親友、モーシィの恋人であるローズは、サラに別の男がいたと暴露する。彼女に依存して生きているアダムが仕事で成功を収めて経済的に自立したら、別れを切り出すつもりだったというのだ。では現在のサラは、その見知らぬ男と一緒にいるのだろうか。嫉妬に狂うアダムは、二人が暮らしている部屋に一通の郵便が届いていることに気づく。中にはサラのパスポート、そして彼女の字で「ごめんなさい----S」と記された便箋が入っていた。

 どうだろう、この身悶えするような展開は。本書はアイルランド生まれの作家ハワード初のミステリーであり、商業出版のデビュー作でもあるという。この作品で英国推理作家協会(CWA)の新人賞(ジョン・クリーシー・ダガー)とアイリッシュ・ブック・アワードの最優秀クライム・フィクション部門にノミネートされた。それも十分に納得するほどに、大作感が漂っている。

 上で紹介したのは起承転結の起にあたる部分だが、承以降はさらに気を揉むような内容である。ネタばらしにならないようにちょっとずつ、この後に待っていることと登場人物についての情報を書いておこう。

 その一、アダムとサラの関係は対等ではなかった。アダムはなかなか芽の出ない脚本家の卵で、十年間も恋人に食わせてもらっていたのである。サラが失踪したのは、彼の作品がハリウッドに売れ、改稿版をエージェントにせっつかれている矢先だった。この設定がタイムリミット・サスペンスとしてじりじり効いている。守らないと未来の扉が閉ざされるという〆切が目の前にあるのに、恋人が失踪してそれどころではなくなってしまうのだ。その心境、同業者の方なら胃が痛くなるほどよくわかるのではないだろうか。

 十年間平たく言えばヒモ状態だったわけで、アダムはローズから、あんたは夢を見ていられたかもしれないけど、サラにも同じように夢を見せてあげられたの、と言われてへこんだりする。つまり恋人の善意に甘えきっていたのだ。その鈍感ぶりに鼻白む読者も多いはずである。

 その二、作中で起きる事件はサラの失踪だけではない。まずプロローグからして不穏だ。物語の後半で主舞台となるのはセレブレイト号という豪華客船なのだが、そこからアダムが夜の海に飛び込む場面が冒頭に描かれるのである。どういうわけでそうなるのか、ものすごく気になる。このセレブレイト号で何かが起きているらしい、という情報が出始めるのは中盤なのでこれ以上は書かないが、とにかく後半は船。閉鎖空間の冒険が待っている。

 その三、意味不明のピースがいくつか交じっている。本書で語り手を務めるのはアダムだけではない。まずコリーン・デュポンという女性がいる。彼女はセレブレイト号の客室係だ。どうやら彼女には触れられたくない過去があるらしい、ということがある部屋の掃除をしているときにわかる。何が秘密なのか、そしてサラの失踪にそれはどう絡んでくるのか。もう一人の語り手は、フランスのピカルディに住むロマンという少年だ。下にジャンとミッキーという弟がいる彼は、なぜか母親からの愛情を受けられず邪険にされている。え、なに、このルナールの『にんじん』みたいな子供は、と思って読んでいると、母親がそうした冷たい態度をとることの意味もうっすらとわかってくるのである。この子はいったい何なのだろうか。そして、サラとどういう関係があるのだろうか。

 こんな感じである。中心にあるのは姿を消したきりの女性に関する謎、そしてその周囲の不可解な状況だ。構成が読者の不安感を増幅し、一刻も早く先に進まなければならぬ、という気持ちにさせる。主人公アダムの頼りなさは焦燥感をさらに煽り立てることになるだろう。半分まで船には乗らないけど豪華客船ミステリーだし、いなくなった女性のことが気になって仕方ない失踪ミステリーだし、身勝手な人間にパートナーとの関係を改めて考え直させる作品でもある。500ページ以上あるのにこれほど先読みが難しい小説も珍しい。

 それにしても、先日話題になったセバスチャン・フィツェック『乗客ナンバー23の消失』(文藝春秋)といい、今年は船旅を読者に躊躇わせるようなミステリーばかり刊行されるものである。海怖い。船おっかない。

(杉江松恋)

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