【今週はこれを読め! ミステリー編】頼りない男の犯罪小説〜ジョー・ネスボ『真夜中の太陽』

文=杉江松恋

  • 真夜中の太陽 (ハヤカワ・ミステリ)
  • 『真夜中の太陽 (ハヤカワ・ミステリ)』
    ジョー ネスボ,鈴木 恵
    早川書房
    1,870円(税込)
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 まだ気がついていない読者のために書いておくが、ジョー・ネスボはミステリー界の宝だ。
 特に謎解き趣味を好むファンは大事にしておいたほうがいい。
 入り組んだ謎と、目の覚めるようなその解決を書かせたら、今のネスボは世界の五指に入る作家と言うべきだからである。しかも毎回違った趣向が凝らされ、どの作品を読んでも退屈することがない。悪いことは言わないので、看板作品であるハリー・ホーレ刑事シリーズのどの一冊でもいいからすぐ手にとって、読み始めるべきだ。

 たとえば2018年の初めに訳された『贖い主 顔なき暗殺者』(集英社文庫)は、同シリーズの第6作にあたる長篇であり、ノルウェー救世軍の幹部がプロの犯罪者に殺されるという事件を扱っている。素材としてはそれほど珍しくないものだが、ネスボの書きぶりだとこれが他に類例のない、独創的な物語に化けるのである。警察官と暗殺者の視点が交互に配置されていく構成を使ったことが勝因だろう。殊に後半、それまで読者が意識していなかった謎が一つ浮かび上がり、事件の様相がまったく変わって見えてきてからの展開が素晴らしい。ネスボの作家としての特質はここにあり、自分が読者に見せようとしている物語の真の姿を隠すのが巧いのである。幕が取り除かれて種明かしが始まった瞬間には溜息が漏れる。あ、それがやりたかったのね、と呟いてしまうのである。

 そんなネスボには、ハリー・ホーレを主人公に用いずに書いた、2015年の『その雪と血を』(ハヤカワ・ミステリ)というノンシリーズ作品がある。殺し屋オーラヴ・ヨハンセンを主人公とする犯罪小説だ。暗黒街の住人たちの血の抗争を描いた非情の物語、という外構なのだが、ネスボの小説だからもちろんひねりがある。視点人物であるオーラヴには空想癖があり、そのために物語がときどき怪しい気配を帯びるのだ。中篇といってもいいぐらいの短い長篇で、趣向と内容が絶妙な具合で結びついている。ノンシリーズの作品だからこそできる完結性、見事なパッケージ感というべきか。しかしこの作品には意外なことに続篇が書かれていたのである。『その雪と血を』と同年内に発表された『真夜中の太陽』がそれだ。

〈おれ〉こと、主人公のウルフ・ハンセンが最果ての地にやって来るところから物語は始まる。少数民族サーミ人が居住する、ノルウェー北部の村である。ウルフは偽名、狩猟者を自称して村に滞在しようとするが、猟銃一本持っていない。たまたまの巡り合わせで教会の堂守をしているレアという美しい女性と、その息子でやんちゃ盛りのクヌートと知り合い、彼らの厚意に甘えながら〈おれ〉は小屋で暮らし始めるのだ。

 すぐ判明するのは、〈おれ〉に後ろ暗い過去があり、〈漁師〉と呼ばれる暗黒街の顔役から逃げているろいう事実である。〈漁師〉は『その雪と血を』にも登場した犯罪者で、話の流れからこの話が前作よりも時系列で後に来ることがわかる。続篇というよりは、世界観を一にした別の物語なのである。では〈おれ〉は何をして最果ての地まで逃げて来たのか。この先どのように生きていくつもりなのか。読者が興味を持つのはその一点だろう。

 これも早めにわかるのは、〈おれ〉が前作の主人公だったオーラヴ・ヨハンセンほど実力のある犯罪者ではないということだ。というよりも、かなり頼りない。小説の初めからして、



----この物語をどう始めたらいいのだろう。事の起こりから話すと言えればいいのだが、事の起こりがどこなのかわからない。誰しもそうだが、おれも自分の人生における因果の本当のつながりなど、正確にわかってはいない。



 と、すこぶる心許ない感じなのだ。読者が抱いた予感はすぐに的中する。〈おれ〉が身を置いているのは社会に背を向けた者だけがたどり着ける厳しい境地ではなく、ドラッグやアルコール、その他の誘惑に負けた者がさまよいこむ、かりそめの休憩所なのである。もちろんそれは安楽なものではなく、厳しい現実が迫ればすぐに崩壊する。〈おれ〉の場合は、激怒する〈漁師〉がもちろん直近の脅威だ。にもかかわらず、彼は現実にきちんと直面できていないところがある。すぐ後ろに生命の危機が迫っているのに、目の前で起きている出来事に目を奪われ、心もそぞろな状態なのだ。

 大丈夫かな、この男、どうなっちゃうのかな、と気になりながらページを繰っていて、次の一行に出くわしたとき、思わず笑ってしまった。



----ひげ剃りを洗い、レアがもう一度おれにキスをしたくなった場合に備えて、歯を磨いた。



 中学生か。
 キスの心配をしている場合か。
 つまり、こういう男なのである。〈おれ〉は、偽名ウルフ・ハンセンは。

 頼りない。そして、その人間臭い部分は欠落であると同時に彼の長所でもある。オーラヴ・ヨハンセンが空想癖ゆえに現世から少し浮き上がっていたのとは別のやり方で、彼も犯罪小説主人公の正統からずれている。そんな人物が後半でのっぴきならない事態に巻き込まれるから、読者も展開から目が離せなくなってしまうのだ。もちろんネスボ得意の仕掛けもあり、物語ががらりと表情を変えるあの魔術の瞬間も訪れる。頼りない男がどのような幕引きを選ぶのか、気になる方はぜひ本書をご覧いただきたい。

(杉江松恋)

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