【今週はこれを読め! ミステリー編】ナチス殺人医師の虚ろな精神『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』

文=杉江松恋

  • ヨーゼフ・メンゲレの逃亡 (海外文学セレクション)
  • 『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡 (海外文学セレクション)』
    オリヴィエ・ゲーズ
    東京創元社
    1,944円(税込)
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  • パールとスターシャ (海外文学セレクション)
  • 『パールとスターシャ (海外文学セレクション)』
    アフィニティ・コナー
    東京創元社
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 スリラーの名手ウィリアム・ゴールドマンに『マラソンマン』(ハヤカワ文庫NV)という作品がある。ナチの残党が主人公を拷問する場面があることで有名だ。健康な歯を歯科医のドリルで削るという想像するだけでも痛そうな拷問で、映画化作品では主人公をダスティン・ホフマン、ナチをローレンス・オリヴィエが演じた。

『マラソンマン』が書かれたのは1974年、映画は1976年の制作である。オリヴィエは役作りにあたって、逃亡中のナチの大物、〈死の天使〉とあだ名されたヨーゼフ・メンゲレをモデルに使用している。このとき、メンゲレは世間に所在を知られていなかった。

 ヨーゼフ・メンゲレは優生学思想に取り付かれた医師で、ナチスの唱えるゲルマン民族至上主義の狂信者として、さまざまな人体実験を行った。特に強い関心を持っていたのがふたごで、双生児が生まれるシステムを解明することが彼にとっては学術上の重要なテーマになっていた。そのためアウシュヴィッツ収容所に送られてくる囚人にふたごがいると、彼の実験室に隔離して研究の対象として扱った。その実験室が〈動物園〉とも呼ばれたのは、双子以外にもさまざな身体上の特異性を持つ者が集められていたからである。

 オリヴィエ・ゲーズ『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』は、その殺人医師の半生を膨大な資料を元に描くドキュメンタリー小説である。2017年に刊行され、同年のルノードー賞を獲得している。これはフランスで最も権威のある、ゴンクール賞に対抗して設けられた賞で、同賞の選に漏れた作品の中から、ジャーナリストや文芸批評家によって選ばれるものだ。また、同年末にはゴンクール賞作品も含めたすべての作品の中から選ばれる「賞の中の賞(プリ・デ・プリ)」も授与されている。

 ナチス・ドイツの敗戦が決定的になり、アウシュヴィッツを後にしたメンゲレは、伝手をたどってアルゼンチンへと逃れた。当時のアルゼンチンはフアン・ペロンの独裁政権下にあり、旧大陸で行き場をなくしたファシストの亡霊どもがここに第二の楽園を築こうとしていた。実家が富裕階層だったメンゲレはその支援をあてにすることができた。そしてアルゼンチンにはナチスの残党に憧憬の念を抱き、進んでその世話を焼こうとする協力者が多数存在したのである。最悪な思想の持主であろうと、非道な行いをしてきた犯罪者であろうと、それを庇護し、時には歴史を修正してでも行いを正当化しようとする者は現れるものである。メンゲレを守ったのは、真実に向き合おうとしない鈍感さと、間違った形で旧い秩序を守ろうとする卑小な精神だった。

 ナチ狩りの歴史において最も有名な事件は、1960年にゲシュタポ高官のアドルフ・アイヒマンをイスラエルの情報機関であるモサドがアルゼンチンで誘拐し、国外に連れ出すという形で逮捕したことだろう。このときモサドはメンゲレの居所を把握していたが、諸事情により逮捕には失敗している。スリラー作家マイケル・バー=ゾウハーのノンフィクション『モサド・ファイル』(ハヤカワ文庫NV)にそのへんの裏事情は詳しい。メンゲレはアイヒマンとブエノスアイレスのドイツ人コミュニティの中で接触は持っていたが、敬して遠ざけていた。自身の行いを正当化して省みない点は同じだが、アイヒマンは名誉回復のためにそれを表に出そうとし、メンゲレは保身のために隠れ続けたからである。そのことが両者の運命を分けた。以降、メンゲレがどのような軌跡をたどっていったかを、ゲーズは彼に寄り添う形で克明に描き続ける。迫真のドキュメンタリーであることはもちろん、犯罪者の逃亡を描くスリラーとしても出色である。

 モサドにナチ残党の情報提供を行って功績があったサイモン・ヴィーゼンタールは、メンゲレについて奇怪な情報を流し続けた。曰く、追手を暗殺してメンゲレが逃亡した、曰く、彼には追跡者の臭いを嗅ぎつける超人的な能力がある、云々。そうした情報は都市伝説となって『マラソンマン』が書かれた1970年代には流布していたのである。オリヴィエ・ゲーズが本書を書いた動機の一つは、メンゲレから神格化の覆いを剥ぎ取り、一個人としての真の顔を描くことだった。そうすることにより、殺しの天使が実は卑小極まりない存在であることを示し、彼がどのように残虐な行いをし、それを正当化したのかを読者に示そうとしたのだろう。命の尊厳に対する恐るべき鈍感さ、感受性が欠落していることをいささかも恥じようとしない心の卑小さこそがその根底にはある。

 物語の後半、隠棲場所に彼を訪ねてきた息子・ロルフにメンゲレはこのように主張してみせた。


「(前略)私には選びようがなかった。アウシュヴィッツを、ガス室を、焼却炉を作ったのは私ではない。私はたくさんある歯車のうちの一つではなかった。一部にやりすぎがあったとしても、その責任は私にはない。私はただ......」


 こうした絶望的な自己憐憫のありようはメンゲレだけのものではなく、幾度も繰り返されてきたものである。それがどれほどありふれた心性であり、いかに身の回りに満ち溢れているかを思い知らされ、背筋の凍るような感覚を味わった。

 本書とぜひ併読してもらいたいのは、アフィニティ・コナー『パールとスターシャ』(東京創元社)だ。ポーランド系ユダヤ人の姉妹は、ある日祖父と母と共にアウシュヴィッツに連行される。しかし、ふたごであったために彼らには特別待遇が与えられた。おじさん先生こと、ヨーゼフ・メンゲレの統べる〈動物園〉で彼の観察・実験の対象として日々を送るのだ。ほぼ同時に生まれながらもパールとスターシャの性格は異なる。アウシュヴィッツの限られた世界の中で、二人は生きのびるための役割分担を決めた。スターシャは面白いこと、未来、悪いことを引き受ける。パールは悲しいこと、過去、善良なことを引き受ける。あんたのほうが分が悪い、未来のほうが希望があるからそっちを取って、そう言う妹に、パールは応えた。「あたしに過去を採らせて、それから現在も。とにかく未来はほしくないの」。

 収容所内の絶望的な日々が、少女の視点で語られていく物語で、ミステリー色はそれほどないものの『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』でこのテーマに関心を持った方や、エリザベス・ウェイン『ローズ・アンダーファイア』に心を惹かれた読者ならば間違いなく手に取るべき一冊である。

『パールとスターシャ』においてメンゲレは、心のない人間として描かれている。非情なのではなく、初めから人間らしい心を持ち合わせていないのである。これは『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』で彼が卑小な人間として描かれたことと符合している。

 初登場の場面が印象的だ。ふたごたちが待つ診察室に、メンゲレは上機嫌に口笛を吹きながら現れる。だが。


----〈おじさん先生〉だ。威勢のいい足どりで口笛を吹きながら入ってきた。(中略)彼が口笛の達人だと思っているのがだんだんとわかってきた。同時に、衛生学と文化と文章の達人だとも思っていた。でも、間違えはしなくても、その口笛が機械的で情感に欠けているのはごまかしようがなかった。音程は変わっても、核には単調音しかなく、感情を知らないうつろな口笛だった。


『パールとスターシャ』は、この虚ろな口笛を吹く人物を相手取り、幼い姉妹が未来を勝ち取ろうとする物語なのである。無知、鈍感さが生み出した残酷さの象徴としてメンゲレは登場する。彼についての物語を読むことは辛いが、私たちに自分が向かうべき鏡の存在を教えてくれるだろう。

(杉江松恋)

  • マラソン・マン (ハヤカワ文庫 NV (1085))
  • 『マラソン・マン (ハヤカワ文庫 NV (1085))』
    ウィリアム・ゴールドマン
    早川書房
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  • モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
  • 『モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』
    マイケル・バー゠ゾウハー&ニシム・ミシャル
    早川書房
    1,058円(税込)
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