【今週はこれを読め! ミステリー編】年末年始に『償いの雪が降る』を読もう!

文=杉江松恋

  • 償いの雪が降る (創元推理文庫)
  • 『償いの雪が降る (創元推理文庫)』
    アレン・エスケンス,務台 夏子
    東京創元社
    1,298円(税込)
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 間もなく2018年が終わり2019年になる。
 それは平成という年号の切り替えへ向けた秒読みの始まりでもある。
 この節目の年末年始に、ぜひお薦めしたい本がある。
 アレン・エスケンス『償いの雪が降る』(創元推理文庫)だ。

 過ぎ去った日々はもう取り戻せないが、それを糧に明日からまた生きることができる。己の過去を見つめることの大事さを読者に気づかせてくれる、素晴らしい小説である。

 物語は大学生のジョー・タルバートが、英語の授業で出された課題のため、とある介護施設を訪れる場面から始まる。課題は、身近な高齢者にインタビューしてその来し方を伝記としてまとめるというものだった。しかしジョーの周囲には該当しそうな相手がいない。彼は大学に入った際に実家を出ていた。母親のキャシーはアルコール依存などの問題を抱えた人物で、ジョーが稼いだアルバイト代を勝手に使ってしまうなど、彼にとっては敬して遠ざけたい存在だった。

 訪れた施設、ヒルビュー邸の職員は、ジョーにカール・アイヴァソンを紹介する。カールはかつて残酷な殺人事件の犯人として裁かれ、終身刑判決を受けた男だった。隣家に住むクリスタル・ハーゲンという少女を強姦した上で殺害し、遺体を物置小屋ごと燃やしたとされる凶悪犯である。末期の膵臓癌と診断され、最後の日々を過ごすために刑務所を出されてヒルビュー邸に入っていたのだ。

 インタビューの相手としては話題性があっていいだろうと軽く考え、ジョーはカールに会う。三十数年前に怪物として法廷に引き出され、人々の憎悪をぶつけられた男は、たしかに死にかかっていた。インタビューされることを承知したカールはジョーに約束する。これは臨終の供述だから嘘は吐かないと。



----彼の目はすぐそこの景色より遠い何かをさがし求めており、その声はかすかに震えていた。「わたしはそれを言葉にしなきゃならない。遠い昔に何があったのか、本当のところを誰かに話さなきゃいけないんだ。わたしは自分のしたことについて、誰かに真実を話さなきゃならないんだよ」



 小説の仕掛けとして巧いのは、読者の前に姿を現わしたばかりのジョーが、深い考えもたいしてなく、とりあえず目の前にあることを片付けなきゃ、ぐらいの軽い気持ちで何事にも当たっている青年として描かれることである。前に進まなくちゃ、と言いながら、実は後ろに置いてきたものから逃げているのだ。上にも書いたとおり、家庭の問題がある。彼には自閉症の弟がいる。その弟、ジェレミーこそが、ジョーを実家から完全に離れるのを食い止めている錨なのだ。

 大学に通う時間以外は学費と生活費を稼ぐためのアルバイトに精を出さなければいけないのに、ジョーには他に頭を悩まさなければいけない出来事が起きる。ただでさえ育児放棄気味の母親が、泥酔した挙句逮捕されてしまったのだ。自閉症のジェレミーを実家に一人でいさせるわけにはいかない。やむをえず彼を自分の部屋に連れてきたジョーだったが、もちろんジェレミーを放置しておけないのは、そこだって同じことなのだった。もちろんジェレミーに罪はない。だが、どうして僕なんだ、どうして。そんな思いがジョーの胸中を去来したはずである。

 実家絡みの事態はさらに悪化していく。自分のことしか考えないキャシーのせいでジョーが追い詰められる第八章の場面が本書の最初の山場になるだろう。余裕のまったくない彼は、現代を生きる人々の似姿でもある。ジョーを応援するとき、読者はきっと自分自身にも言い聞かせている。ここを乗り切ればなんとかなる、もう少しだよ、と。

 小説の仕掛けをもう一つ。ジョーの隣室にはライラ・ナッシュという大学生が住んでいる。ジェレミーを一時的に引き取ったおかげでジョーは、以前から気になっていたにもかかわらず、話しかけることもできなかったライラと口をきく仲になるのだ。このライラがカールの存在に関心を持ったことも手伝って、インタビューは少しずつ進んでいく。好きな女の子の気を惹くために「僕は今こんなことをやってるんだぜ」と自慢してみせたいわけである。わかる、わかるぞ、ジョー。

 同情すべきは殺人犯ではなくて被害者だと断言するライラは、カールが嘘を吐いていないか見極めるために裁判の記録を取り寄せるよう、ジョーに助言する。それが結果として重大な転換をもたらすのだ。カールにはヴェトナム戦争従軍の経験があった。その回想と書類の中からジョーたちが発見した事実により、結論が見えていたはずのインタビューは思いがけない方向に進んでいくことになる。

 キャラクターの魅力がページを繰らせる動力源になっている小説である。読者が注目するのは、カールという人物だろう。死期が迫っていることもあるが、落ち着いた知性的な口調で話す彼の人物像は、小児性愛者の殺人鬼という烙印にそぐわない。その外面の下に憎むべき顔が隠されているのか。それともそうした人物を狂わせるような何かが過去に存在したのか。事実を知りたいという思いが読者の心を駆り立てるのだ。

 三分の二が経過したところでジョーが到達する結論は意外極まりないものだ。そこから彼はゴールを目指して走り始める。事件によって傷ついた人の心を元に戻したいという思いから。そして、過去から目を背けていた自分と向かい合い、新たな気持ちで未来へ進んでいきたいという願いからである。物語後半の彼は、登場したばかりのころの、頼りない、自分というものの中心さえないジョー・タルバートではない。誰もがきっと、彼と共に明日を見たいという気持ちになるはずだ。一年の終わりに、そして新しい時代の幕開けに、ぜひ本書を読んでいただきたいと思う所以である。

(杉江松恋)

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