【今週はこれを読め! ミステリー編】拉致監禁犯の父との対決〜カレン・ディオンヌ『沼の王の娘』

文=杉江松恋

  • 沼の王の娘 (ハーパーBOOKS)
  • 『沼の王の娘 (ハーパーBOOKS)』
    カレン ディオンヌ,林 啓恵
    ハーパーコリンズ・ ジャパン
    1,100円(税込)
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 一口で言うなら、あらかじめ奪われた人生を取り返す小説だ。

 2018年度のバリー賞に輝いたカレン・ディオンヌの長篇『沼の王の娘』である。もう少し言葉を足すならば、他人の物語に押し込められることを拒み、自分の物語を自分自身で綴ろうとする主人公の話、ということになる。

 主人公の名はヘレナ、夫のスティーブンとの間に二人の娘、アイリスとマリを授かった、外見上はごく普通の女性である。物語はある日の午後、自作のジャムを取引先に配達した帰り、トラックのラジオに彼女が耳を傾けたことから始まる。ニュース速報はミシガン州マーケットの刑務所から凶悪犯が脱走したことを告げた。児童誘拐、強姦、ならびに殺人の罪で仮釈放なしの終身刑に服していた男、ジェイコブ・ホルブルック。彼は刑務所から逃亡する際、すでに二人の看守を殺害していた。ニュースを聞いたヘレナは、ジェイコブが容易には捕まらないだろうということを、臭跡を辿って彼の居所を突き止められるのは自分しかいないということを瞬時にして確信する。ジェイコブ・ホルブルックはヘレナの実の父親なのだ。

 カレン・ディオンヌの話運びは敏捷であり、章の終わりには効果的に切れ場を差し込んでくる。きびきびした文体を最初の二十ページ読んだだけで、語り手であるヘレナが石のように硬い精神力と、腕のいい狩人の周到さを持ち合わせていることが理解されるはずだ。彼女は父親ジェイコブを沼の王と呼ぶ。小説の各所に引用されている、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話に由来する呼び名である。

 童話の沼の王はコウノトリに姿を変えて飛んできたエジプトのお姫さまを水の中に引きずり込む。隠喩的に処理された展開の後、お姫さまは子供を産み落とす。その子は「昼のあいだは見た目こそ光の天使のようにかわいらしいのに、ねじ曲がっていて、たけだけしい性質」「寄るになると、姿形は醜いカエルになりますが、物静かで陰気で、目には悲しみをたたえて」いるという、まったく異なる二つの姿を持つことになったのである。その醜いヒキガエルの子が、本書のヘレナということになる。

 ジェイコブ・ホルブルックは、十四歳の少女を誘拐し、沼沢地の中にある小屋に閉じ込めた。ヘレナはその女性から生まれたのである。外の世界をまったく知らず、父親に教えられることだけがすべてだと信じてヘレナは育つ。ジェイコブが教えたものは力の論理、自分のように狡く、残酷に世界に立ち向かうにはどうしたらいいかという術だった。当然のことながらヘレナは父を尊敬し、同じような英雄になりたいと願いながら少女期を過ごすのである。

 この少女時代の追想と、現在の追跡劇とがカットバックする形で話は進んでいく。現代のパートは二人の手練れによる知恵比べであり、息詰まる人狩り劇になっている。読者にとって最大の関心事は、いつ沼の王たる父親が主人公の前に姿を現わすのか、ということだろう。作者はセンスがよく、ここしかない、という抜群のタイミングでその瞬間を到来させている。これは余談だが、作中で「もっとも危険なゲーム」という小説について言及される箇所がある。短篇と書かれているからギャビン・ライアルの有名な作品ではなく、リチャード・コンネルが1924年に発表した作品のほうだろう(「世にも危険なゲーム」の邦題で、光文社文庫『世界傑作推理12選&ONE』に収録)。

 過去パートのほうは、ヘレナが綺麗な心を持つヒキガエルから、名実ともに一人の人間になるのはいつか、ということが焦点になっていく。重要なのは、最悪の悪役としての父親がいるからといって、本書が母と娘の物語にはならないことだ。冒頭でヘレナは宣言する。「いまここで母の名前を出せば、あなたもたちまちあの人かと思うだろう」「だが、わたしは母の名前を明かさない。これは母の物語ではない、わたしの物語だ」と。人生の選択を行った責任は自分自身にあり、他の誰にもないと初めから言い切っているのである。ここが本書の最も重要な部分であり、物語を最初から最後まで貫く軸線になっている。

 幼時からの刷り込みによって自分の中に父親への愛情があることもヘレナは隠さない。それも含めての対決劇なのだ。どこの誰とも似ていない育ち方をした主人公は、どこの誰とも同じではない考え方をする。その独自の行動律を読むのが実に心地いい。

 最後に、痺れるほどかっこいい文章を引用しておこう。誰かに、もしかすると肉親に、おまえの人生はおまえのものではない、おとなしく跪いて人生の奴隷になれ、と強制されたことがある人のために。ヘレナはこう言う。



----わたしは父の弱点、アキレス腱だった。父はわたしを育て、父自身の分身にしたてあげたが、それはみずからの滅亡の種をまく行為でもあった。母を支配することはできても、わたしを支配することはできなかった。



 そうだ。支配することはできないんだぜ、誰にも。どんなことをしたって。

(杉江松恋)

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