【今週はこれを読め! ミステリー編】老魔術師と少年が起こす奇跡『トリック』

文=杉江松恋

  • トリック (新潮クレスト・ブックス)
  • 『トリック (新潮クレスト・ブックス)』
    Bergmann,Emanuel,ベルクマン,エマヌエル,晶子, 浅井
    新潮社
    2,750円(税込)
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 老魔術師は言う。「夢、信じるなら、夢のままで終わらない」と。

 しかし、いかに夢を見ながらやり過ごそうとも目の前に存在し続け、残酷な運命を突き付けてくる現実というものもある。たとえば貧困。たとえば家族との別離。たとえば人がもののように「始末」されるホロコースト。

 夢が織り成す魔術を信じたい気持ちがある。現実から目を背けたくないという思いもある。その狭間でもがきながら少しずつ人生を進んでいく。

 ドイツのユダヤ人家庭に生まれた作家。エマルエル・ベルクマンの長篇『トリック』はそういう小説だ。訳者あとがきによればベルクマンは、デビュー作となる本書を最初で英語で執筆したが、スイスのディオゲネス社の求めに応じてドイツ語で一から書き直して出版、後にそのドイツ語版オリジナルを再び英語に訳したという。一人の作家が三度同じ小説を書いたことになる。

 物語には二つの時間軸がある。一つは過去、20世紀初頭のプラハに始まるものだ。ユダヤの聖職者であるラビの家庭に、一人の赤ん坊が生まれる。夫であるラビはそのとき大戦に出征していたため不在で、一家の階上に住む錠前師が父親である可能性があった。妊娠は奇跡だとする妻の主張をラビは受け入れて子供を育てる。しかし彼女が早逝したあと、父子の間柄には隙間風が吹くようになり、男の子はついに家を捨てる。そして信仰を捨て、ユダヤ人であることも止める。偶然出会った美少女に惹かれて魔術師に弟子入りし、彼はサーカスの団員になる。後に大ザバティーニを名乗ることになる、モシェ・ゴルデンヒルシュの物語である。

 もう一つの時間軸は現代のアメリカに設定されている。11歳の誕生日まであと3週間となったある日、マックス・コーンの身の上には青天の霹靂というべき大事件が起きる。ダッドとマムが突然離婚すると言い出したのだ。11歳まであと3週間の少年には世界の終わりに等しい宣告だ。しかし彼は、とっても素晴らしいアイデアを思いつく。ダッドが子供の頃に買ったレコードがきっかけであった。それは音楽ではなく呪文が吹き込まれたもので、中には恋愛の魔法が入っていた。ダッドとマムに魔法をかければ、また仲直りして親子3人で暮らせるようになるかもしれない。あいにくレコードには傷が入っていて肝腎の箇所を聞くことはできなかった。しかしマックスは、めげずに呪文を吹き込んだ本人を探し始める。「ザバティーニ──その最大のトリック」とレコードのタイトルには書いてあった。

 小説の中核には、もちろんホロコーストという歴史的事実がある。20世紀のプラハに生まれ、1940年代のベルリンで人気が沸騰した魔術師となるモシェ・ゴルデンヒルシュがその運命から逃れることは不可能だろう。時計の針が少しずつ進んでいく過去パートでは、いつその瞬間が訪れるのかと読者は固唾を呑みつつ彼を見守ることになる。

 しかし、自分の前途に何が待ち受けるのかを人は知ることができないものである。ユダヤ人であることを捨てたモシェはサーカスに入り、こんな言葉で団員たちから歓迎される。「これでお前はもうユダヤ人じゃない」「だけどお前は、俺たちの仲間だ」と。厳格な戒律を守るユダヤ人の共同体からの解放されることは、十代の少年にとっては大いなる喜びであったのだ。本書の前半部では、そんなモシェの青春時代が生き生きと描かれる。後に読心術師として名を馳せた彼は、犯罪者を狩るナチスの刑事に協力しさえするのだ。もちろん読心術はトリックであり、刑事の問いに対してモシェが返した答えには何の根拠もない。その結果多くの人々が逮捕され、どこかに引き立てられていく。しかし「彼らの身にその後なにが起こるのか。知りたくはなかった」モシェは、耳と目を塞いで自由を謳歌することに専念する。それが未来において我が身に降りかかってくるのと同じ運命であるとは知りもせずに。無限の自由などというものは存在せず、現実から目をそらし続ければ必ず何かが起きる。同時期に刊行されたディストピアSF、クリスティーナ・ダルチャー『声の物語』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)と併せてこのへんのくだりは読んでもらいたい。

 現在のパートにおいて、もちろんマックスは大ザバティーニと巡り合う。青春期のモシェを知っている読者は、その変わり様に驚くはずである。一口で言うならば助平度がハードコアの域に達した亀仙人で、マックスの母親に言い寄ってフライパンでぶん殴られたりする。しかしその最低の爺以外に、彼の運命に奇跡を起こしてくれる人はいないのだ。あまりにも頼りない命綱である。こちらの物語でも読者ははらはらしながら成り行きを見守ることになるだろう。老いぼれ魔術師は奇跡を起こせるのか。本当、頼むよ、ザバティーニ。

 間違ってもミステリーの範疇に入る小説ではないが、周到に仕掛けられた伏線やその回収といった技巧に読者は驚きの声を上げることになるだろう。ホロコーストの歴史を背景にした奇跡を、ぜひ楽しんでもらいたい。モシェがユダヤ人であることには他にも意味があり、これは家族の物語にもなっている。自由を縛る足枷にもなるが、唯一の居場所でもある家族というものを、モシェとマックスの二つの視点から立体的に作者は描いていく。家族を捨てた男、家族を再生させようとした少年はそれぞれどんな境地にたどり着くのだろうか。

 夢と現実を共に真摯に描くという試みにベルクマンは挑戦し、見事に勝利を収めた。この小説の中には他にも相反する要素が詰め込まれている。過去と現在、若さと老い、野卑な笑いと崇高な姿勢、そして根を持つことと羽ばたくこと。それらがどのように調合されているのかは、熟読することによって解き明かせるはずだ。没薬の秘密を暴くように、味わい読むのだ。

(杉江松恋)

  • 声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)
  • 『声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)』
    クリスティーナ ダルチャー,オートモアイ,市田 泉
    早川書房
    2,090円(税込)
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