【今週はこれを読め! ミステリー編】移民問題に直面するインドリダソン『厳寒の町』

文=杉江松恋

  • 厳寒の町
  • 『厳寒の町』
    アーナルデュル・インドリダソン
    東京創元社
    2,268円(税込)
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 憎悪は液体と同じで、一定量を超えれば溢れるのを止めることはできない。
 理性という容器に封じ込めたつもりでも、ごく僅かなひびがあれば滲み出てくる。
 それがいかに御しがたいものであるかを『厳寒の町』という小説は明らかにするだろう。

 北欧の小国、アイスランドの作家アーナルデュル・インドリダソンが手掛ける、エーレンデュル・スヴェインソン・シリーズの長篇第5作である。

 たいへん痛ましい場面から物語は始まる。路上で死亡している少年が発見されるのだ。通学カバンを背負い、片方の足のブーツは脱げて、穴のあいた靴下から指が覗いている。年齢はおそらく十歳くらいだろう。その黒髪から、彼がアジアからの移民の子供であることは一目瞭然だった。すぐに死因が腹部の創傷であることも判明する。殺人事件だ。

 少年の名はエリアス、アイスランド人の男性と結婚するためにタイからやって来たスニーという女性の次男だった。スニーはエリアスの父親とは離婚し、シングルマザーとして生活していた。彼女にはもう一人、エリアスの異父兄にあたるニランという息子長男がいるが、行方がわからなくなっていた。エーレンデュルたちレイキャヴィク警察の面々は、ニランの身柄確保を第一の課題として動き始める。

 第一作の『湿地』から『緑衣の女』、『声』、『湖の男』(すべて東京創元社)と順にこのシリーズは訳されてきた。捜査が進むうちに登場人物たちの過去が明らかになっていき、遥か昔の人間関係が時間を超えて現在の彼らに影響を及ぼすという、奇妙な因果の巡りが描かれるという共通点が過去の4作にはあったのである。殺されたのが十歳の少年という事情もあり、今回初めてエーレンデュルは過去に遡らない事件を扱うことになる。その代わりに直面するのが、厳しい社会問題なのである。アイスランドは人口40万に満たない小国だが、他のヨーロッパと同様に、他国からの移住者について難しい対応を迫れられている。いや、国土が狭く人口が少ない分、より深刻なのかもしれない。エリアスの通う小学校にも、自国が多文化社会化することを不快に感じ、あからさまな態度に示す教師がいた。そうした不寛容が憎悪に変わった可能性を無視して捜査を進めるわけにはいかない。

 アイスランド人の若者が多文化社会に関心がない、という調査結果があることについて、エーレンデュルの同僚のエリンボルクはこんな言葉で揶揄する。

「そうね。発電所や魚の缶詰工場の労働者が足りないときに外国人労働者がほしい、でも必要がなくなったらいなくなればいいと思っているのよ」

 日本にも研修という名目で招いた外国籍の人々に悪条件の労働を強いている実態があり、エリンボルクのこの皮肉は耳に痛く感じる。本書は2005年の作品だが、日本で改正入管法が施行された年に邦訳が出るというのは非常に感慨深いものがある。まさに今読まれるべき作品なのだ。

 原題のVETRARBORGINは冬を表すアイスランド語である。タイ生まれのスニーと長男のニランは、常夏の国から極北の国にやって来た。アイスランドの冬は生まれて初めて体験する厳寒であったことだろう。その気候の違いが、異文化摩擦に悩む彼らの心情を端的に表現するのである。エリアス少年の殺人事件と並行して、エーレンデュルは失踪した女性の行方を追い続けている。本書で初めて知ったが、アイスランドでは失踪者がすぐ自殺したと決めつけて、積極的に探さない傾向があるのだという。


----エーレンデュルはその理論をさらに進めて、失踪に対する人々の無関心は、何百年も遡っての昔から、地方の片田舎における事情と関係があると考えていた。厳寒の冬、田舎で人々が吹雪の中で凍え死んだり、道に迷ってまるで地面に吸い込まれたように姿を消したりすることと無関係ではないと思うのだ。戸外で、自然の中で凍え死ぬことに関する考察ならエーレンデュルの右に出る者はいなかった。


 エーレンデュルには遭難死した人々のノンフィクションを読むという奇妙な趣味がある。第一作の『湿地』では彼に離婚して親権を手放してからほとんど会っていない娘がいることぐらいしか彼の私生活についての情報はなかったが、巻数を重ねるにつれてエーレンデュルの過去は少しずつ明かされてきている。彼が遭難者の本に執着するのは、幼少期に吹雪の中で実弟を亡くしたという過去があるからなのだ。先に過去に遡る箇所がない長篇と書いたが、実はエーレンデュル自身が実弟の死に向き合わなければならなくなるという場面はある。冬の厳しい寒さは人々の生命力を減じさせ、運命に対する諦念をもたらす。その昏さによって奪い去られるものがあまりに多いということが、本書の隠れた主題になっているのだ。憎悪は人を傷つけるが、危害の形は暴力の行使という積極的なものだけではない。無関心、無干渉という消極的な態度も憎悪の一変形であり、それが少しずつ心を蝕むということを本書の読者は知るだろう。移民の母子が初めて知ったアイスランドの冬の暗さと、エーレンデュルが執着する遠い過去の死とが、終盤のどこかで結びつく。

 過去作に比べると、プロットはやや緊密さを欠く印象がある。作者は承知の上で、因果応報の人工的な展開を抑え、索漠とした現実を描くことを選んだのである。しかし物語運びは退屈どころではなく、エーレンデュルとエリンボルク、もう一人のシグルデュル=オーリという三人の警官によって進められていく捜査課程から目を離すことができない。いくつもの可能性を並列で呈示し、主人公たちにそれを同時に追わせるという構成の勝利だろう。疑わしい人物、動機は事欠かず、がっちり心を掴まれたまま最後までページを繰らされることになる。警察捜査小説の理想形と言ってよく、暗い物語なのに、なぜか読まされてしまうのだ。

(杉江松恋)

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