【今週はこれを読め! ミステリー編】達人ミネット・ウォルターズの性格劇『カメレオンの影』

文=杉江松恋

  • カメレオンの影 (創元推理文庫)
  • 『カメレオンの影 (創元推理文庫)』
    ミネット・ウォルターズ,成川 裕子
    東京創元社
    1,540円(税込)
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 ミステリーの興趣は性格喜劇、もしくは悲劇のそれにつながる。
 そのことを天下に再周知したのがミネット・ウォルターズという作家だ。

 強欲や好色など人間のある側面を取り上げ、そのことによって人生が左右されるさまを描くのが性格劇である。同じ題材でも演じようによって喜劇にも悲劇にもなる。だから本来の意味でのキャラクター小説とは、登場人物の性格が内容を決定づける主因になっているもののことを言うのである。ウォルターズの小説はまさにそれ。この人物はいったい何者なのか、という関心だけでどんな長い物語でも読ませてしまう。このたび翻訳された『カメレオンの影』はそのウォルターズが2007年に発表した長篇だ。

 中心にいるのはチャールズ・アクランドという若い軍人である。冒頭に置かれるのは、元国防相所属の文官であった老人が、自宅で撲殺されたという新聞記事だ。それに続く「八週間後」という短い章で、チャールズ・アクランドがどうなったかが語られる。彼はイラクで偵察任務に就いている最中に敵の攻撃を受け、車輛を爆破される。同乗していた二人の部下は死亡、彼は頭部と顔面に重度の損傷を負い、最終的には左眼を失うことになる。

 アクランドが目覚める場面から物語は実質的には始まる。重傷ではあったものの彼の体力回復は早く、勝手にベッドから降り立ってしまうようなこともあった。やがて、アクランドが時折極めて暴力的な反応を示すことが問題になる。見舞いに来た母親の手をねじり上げるなど、そうした反応の対象は女性に限定されていた。「八週間後」では、精神科医として彼を担当するロバート・ウィリスの視点と、「いや、だめだ。誰であれ、女は信用できない」と意識がまだ混濁しているうちから思考することもあったアクランド自身の視点とが綯い交ぜられながら叙述が進んでいく。

 アクランドにはイラク従軍前に婚約を破棄した相手がいた。そのジェニファー(ジェン)・モーリーという女性に会うことをアクランドは頑固に拒み続けるのだが、彼女は一方的に手紙を送りつけ、ついには医師の制止も聞かずに病院に訪ねてきてしまう。だが、元婚約者に対してもアクランドは冷たい態度を示すだけだった。

 題名にもあるカメレオンの語句はジェン・モーリーからの手紙に初めて出てくる。「チャーリーはカメレオンです。彼は相手によって見せる姿を変えます」と。実はこうした定まらない人物像は、ウォルターズ作品の特徴でもある。本邦初紹介となった『氷の家』で読者が最も驚かされたのは、物語の途中で登場人物たちが役割を入れ替え、性格さえも変貌させたように見えたことであった。しかしそれは変化ではなく、登場人物が別の面を見せただけに過ぎないことが読み進めるうちにわかってくる。どんな人間も性格は立体的であり、場面や応対する相手によって違う顔を見せる。カメレオンなのはチャーリー・アクランドだけではないのである。

 普通のミステリーには、あてがわれた役割に応じた性格を一つだけ見せる、つまり平面的な登場人物が出てくることが多い。しかしウォルターズ作品では複数のキャラクターが初めから立体的な性格の持ち主として出ることが決まっており、彼らがいつどこで、どんなことをきっかけにして第二、第三の表情を見せるかということが物語を決定づける要素になっている。『カメレオンの影』はまさしくそうした作品で、読者はいぶかしみながらチャールズ・アクランドの後を追うことになるのだ。彼はいったい、どんな男なのだろうかと。

 冒頭の新聞記事に書かれたものに始まる、連続殺人事件が発生している。これがアクランドの人生とどのように絡むのか、というのがプロット上の要点だ。途中である男性に対する暴力事件が起き、容疑者としてアクランドが逮捕される。事件の直前に彼が被害者と接触して揉めていたからだ。ただしこのときはすぐにアリバイが成立し、彼は釈放される。

 この出来事も含めて中盤からアクランドと関わりを持つのが、ドクター・ジャクソンだ。彼女はパワーリフターでもあり、パブ〈ベル〉を経営しているデイジーというパートナーと同棲している。女性を病的に敵視しているように見えるアクランドと、レズビアンであるドクター・ジャクソンを組ませたのが本作の巧い点で、相容れることなく対立した者同士の視点でそれぞれが描写されることになる。出自だけ見ても、寄宿学校出身のアクランドは中龍階級の上、対するドクター・ジャクソンは「話すときはt音を落とし、人生で一度も同等のチャンスに恵まれることなどなかった人たちのひとり」である「貧民層の生まれ」なのだ。理解しがたい、信用できないという感情が先に立った形で彼らの人物は描写されていく。この感情が入り組んだプロットをさらに複雑化させているのだ。

 事件の背景になんらかの性的暴行の事実があるらしいということがわかる中盤から物語は加速し始める。素晴らしいのは、アクランドの性格という最大の謎を追っている最中に連続殺人事件の手がかりが突然浮上してくることで、混沌としていた視界が見晴らしよくなる瞬間がある。それも一度で霧が晴れるわけではなく、段階的に謎は解かれていくのである。手がかりの出し方に賞賛すべき点が二つあり、一つは物証の使い方が巧いこと、もう一つはジョーカー的に後ろ幕と前景の間を行ったり来たりする人物を使って、情報を小出しにしていることである。

 前者について言えば、おもしろい小道具が非常に多いことも指摘しておきたい。何が記憶に残るといって、具体的に挙げられる手がかりがたくさんある謎解きほど読者に強い印象を与えるものはないのだ。また、後者について言えば、登場人物に複数の役割を担わせ、それを一つずつ明かしながら事件の性格そのものを上書きして変化させていく、というのがウォルターズの得意とする叙述法であることもお知らせしておく。

 これまで未訳であったことが信じられないほどの出来栄えであり、2000年代におけるウォルターズの代表作と見做していいだろう。雲なす証人にことごとく嘘を吐かせ、それを暴くおもしろさを読者に教えたのがミステリーの女王と呼ばれたアガサ・クリスティーであった。その後継者と言われることもあるウォルターズは、嘘だけではなく人間の性格そのものが読者を錯誤させる謎として使えることを発見した作家だ。人間観察の達人だと思う。

(杉江松恋)

  • 氷の家 (創元推理文庫)
  • 『氷の家 (創元推理文庫)』
    ミネット ウォルターズ,Walters,Minette,裕子, 成川
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