第105回:平山瑞穂さん

作家の読書道 第105回:平山瑞穂さん

ファンタジー、SF、ミステリ。さまざまな要素のつまった作品を発表し続け、作家生活6年間の集大成ともいえる『マザー』を上梓したばかりの平山瑞穂さん。実は若い頃はずっと純文学志向だったのだとか。おそらくそれは、ご家族の影響も大きかったのでは。意外なバックグランド、多感な10代の頃の読書、そして長い応募生活など、作家・平山瑞穂ができるまでがようく分かります。

その4「再び作家になりたいと思うまで」 (4/6)

――大学に進学してからはいかがでしたか。

平山:立教大学で社会学を専攻して、この間は文学からは1回離れます。社会思想系、ポストモダン系の本を読むことが多くなって、自分でも手すさび程度に論文みたいなものや、ポストモダン気取りのエッセイみたいなものを書いていました。

――ニューアカの頃になりますか。

平山:僕はちょっと遅れて大学生になった世代です。まあでも、中沢新一さんとかは人気でした。フーコーやボドリヤールといった社会学とクロスする人たちの本はみすず書房から出ているものを、ちょっと高いけど(笑)、買っていましたね。ボードリヤールなんかは思想家というよりジャーナリストに近い。そういう人がポストモダン的なタームを使いながら華麗に現代の事象を鮮やかに読みとっていて、それが軽薄というそしりも受けていましたが、僕はその鮮やかさにしびれちゃって。自分もこういう風に格好よく世の中のことを解き明かしたいと思っていました。その頃書いたものはとってありますが、今読むと若書きしているけれど、なかなかいい線いってるじゃん、というものもある(笑)。

――では、その頃は作家になりたいとは思っていなかったんですね。

平山:どちらかというと、学者というか、研究職をやりつつ格好いいことを書くというような、中沢新一のような存在になりたいと思っていましたね。

――高校の頃と比べて、周囲とは折り合いをつけるようになりましたか。

平山:高3の時に文学との決別があって、性格も少し変わったと思います。生徒手帳の顔写真も、高2の頃はあんなに怖かったのに、高3のものになると、なんか話が通じそうな顔になっている(笑)。相変わらず変人ではあったけれど、少し話し合いの余地が出てきていました。大学に入ってからは周囲ともわりと友好的な関係を結んでいましたね。

――小説はまったく読まなかったのですか。

平山:大学の頃は、とりあえず村上春樹の新作が出れば読む、という感じ。社会人になってから、また本気で作家を目指し始めて、そこからは松浦理英子さん、辻原登さん、奥泉光さん、池澤夏樹さんといったエッジのきいた、純文学系の流れをくむ作家を読み始めました。また文学のほうに戻っていったんですよ。なぜ戻ったかというと、サラリーマンが嫌だったんです。新卒で入った会社はパソコンのソフトの制作販売をしている小さなところで、社員も全部で20名くらい。当時はバブルでそういう会社が雨後の筍のように出てきていたんですね。でもほとんどバブルはじけて消えていって、その会社も現存していません。立教出身でバブルの頃というと、かなりいい会社にも入れたと思うんですけど、僕はそれを拒んだんです。後から思うと理由が分かるんですが、なまじちゃんとした会社に入ると、その後の道が決まってしまうので、どこか逃げ場を作っておきたかったんですね。大企業に入っておいて辞めたら「いい会社入って辞めるなんて」と言われてしまう。それで聞いたこともない会社、「辞めて当然だろう」というところを選んだ。この時点で及び腰というか、違う道を選ぼうとは思っていたんです。最初の会社はなくなる前に、大地震の前のねずみのように逃げ出しました(笑)。そこには8か月間いてその後は8か月くらいフリーター生活で、塾講師などをしていました。月収も多い時は8万、少ない時は4万くらい。親元にいたので飢え死にはしませんでしたが...。それで、熱心に小説を書いていました。お昼くらいに起きてダラダラしてから少し書いて夕方には塾に行き、夜は10時前後から朝の4時、5時くらいまで書いている。親はこの子はどうなってしまうんだろうと思っていたはず。

――また小説を書こうと思ったきっかけはあったのですか。

平山:最初の会社の上司が自分にとって嫌な人で、パワハラに近いことをされまして。こんな環境にいたくないと思ったんです。というより、本格的に自分はサラリーマンに向いていないと思った。脱サラするにあたってどの道がふさわしいかを考えて、フリーター時代に研究職への道に戻ろうかとも迷ったけれど、それも違うんじゃないかと思い、本当にやりたいことは小説を書くことだ、とやっと自覚したんです。

――フリーター生活のあとは。

平山:雑誌編集の仕事につきました。当時マスコミでも話題になったんですが、『We're』という雑誌で、会社にはそれ以外に商品がありませんでした。社員は5名と、前よりも少なかった(笑)。日英中韓の、4か国語の雑誌だったんです。ページが4分割されていた。当時外国人が増えていたので、彼らが読めるものを、と代表的な言語を拾ったんですが、とにかくすごく手間がかかる。日本語の記事を英語に翻訳することは問題ないんですが、韓国語から中国語に翻訳できる人間がいない。それで、韓国語を日本語に訳してから中国語に訳す、といったように、手間をかけていて、コスト倒れだったんですね。すごく面白かったんですけれど。

――小説を書く余裕もないくらい忙しかったのではないですか。

平山:過酷でしたね。残業時間で考えると、月に100時間は越えていたと思います。毎日徹夜で土日も休みなし。これじゃあ小説を書く時間がないと思って8か月で辞めました。

――また8か月(笑)。

平山:何かあるんでしょうね、8か月に(笑)。それで、経験してみて、時間がとれても仕事が好きじゃない状態も、仕事は好きだけど時間はとれない状態も、立ち行かないと思ったんです。でも、小説の応募をしていたけれど、予選は通過してもなかなか受賞はできない。長期戦になりそうだったので、やりたい仕事は別として、小説を書くにしてもまず安定と時間を確保しようと思い、それで今の会社に入りました。それが93年の秋。最初は広告の部署にいて忙しかったんですが、01年にデータベースの分析と管理の部署になって、定時にあがれるようになりました。できればもう今の部署から異動したくないですね。もう知識が必要な専門職になっていますし、このままどんどん異動させにくくしてやろうと考えています(笑)。

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