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「月魚」
評価:AAA
この馥郁とした表題の本には二編の小説が収められている。『水底の魚』は《古書無窮堂》の若き店主、本田真志喜が幼なじみの瀬名垣太一とともに地方の旧家へ、蔵書を買い付けにいく話である。瀬名垣は《古書瀬名垣》を名乗っているが、卸専門で店を構えてない。<せどり>の息子としての出自と、無窮堂先代の失踪に深く関わったことが、瀬名垣の生き方に少なからず陰を落としている。旧家の未亡人に請われて不承不承応じた目利き勝負が、このミニマムな世界に一陣の風をもたらし、真志喜と瀬名垣の長い足踏み状態を後押しする結果となる。二人の間に見え隠れする微妙な葛藤と古書肆の日常に、抑揚を抑えた筆致と瑞々しい文体がほろ苦く調和し、活字でなければ成しえない既視感を味わうことができる。古書の発する慎ましい囁き、月明かりを散らした水面をかすめる魚影、いい小説は活字までが美しく見えてくる。『水に沈んだ私の村』は二人の少年時代から切り取った夏の情景が描かれている。秀郎とみすずを加えた四人の交流が眩しすぎて、少し胸が痛くなった。 |
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【角川書店】
三浦しをん
本体 1,800円
2001/5
ISBN-4048732889
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「長い腕」
評価:A
ヒロイン島汐路が身を置くゲームソフト業界は、たいそう小説映えのする空間だ。テクノロジーの先端に関わっていながら人間臭を隠せない、各スタッフのパーテーション内の描写は殊のほか興味深く映った。いまの時代を象徴する<場>にも淘汰されずに残る呪術的側面は、自覚がない分不気味さも増す。物語がその先端から末端、つまり古い因習の残る故郷の旧家へと移行し、そこで私たちが目にするのは、ネット社会が温存してしまった負のエネルギーである。人間の生業が生み出す軋みや、本来心の奥底に沈殿すべき歪みは、途方もない容積の受け皿を得たことで解き放たれ、増幅し、全方位に向けて悪意の矢を放つ。異界への扉はここにもぽっかりと口を開いていた。これは生前の乱歩が想像もできなかった恐怖の形であり、血飛沫や惨殺死体に頼らない良質のサイコ・サスペンスでもある。すっきりとした文章と嫌味のない汐路の性格が陰鬱な空気を吹き払い、読後感は悪くない。皮肉ではなく厚みもほどよいと思った。 |
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【角川書店】
川崎草志
本体 1,500円
2001/5
ISBN-4048732986 |
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「一の富」
評価:C
毎月のテキストに一冊でも時代小説が混ざっていると、なぜかほっとする。時代物にある約束事や様式美が好きなのだ。逆にいうと、それを踏まえる必要のない時代小説に存在価値はない。であるから現代ドラマをただ江戸に置き換えただけのテレビ用時代劇はごめんこうむりたいし、存分に時代物のテイストを堪能させてほしい。そういう期待をもって本書も読んだ。雰囲気は落ち着いていてまあまあだが、拍子郎のあまりつかみどころのないキャラクターがいいのか悪いのか、なんとも印象が薄い。むしろ元気のいい料理茶屋の一人娘おあさの方に、存在感があってよけいにそう思える。上方贅六の私としては作者の狙いがどこにあるのか量りかねた。起こる事件は江戸的でいいのだが、いまいち小ぶりで読み応えに欠ける。 |
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【角川春樹事務所】
松井今朝子
本体 1,800円
2001/5
ISBN-4894569256 |
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「黄金の島」
評価:A
その土地の温度とか、空気に含まれる生活臭などをどう伝えるか。それが異国を舞台にした小説の完成度を量る分かれ目だと思う。本書はその成功例のひとつだ。ベトナムには一度もいったことはないが、読んでいて息苦しいほどの湿気に包まれた。明日の見えないシクロ乗りたちの焦燥感が、<黄金の島>に見果てぬ夢を見させているのだとしたら、終わりのない閉塞感に息も絶え絶えの我々の日々はいったいなんなのだろう。両方を知る修司がそれでも彼らを引き連れて、故国を目指すしかないところが無残である。後半の船による脱出劇で一段と発揮される作者の確かな描写力は、意思をともなった生き物のようにうねる海面と矮小な人間の欲を無慈悲に対比させ、その部分だけでも独立した作品になり得るぐらい迫力がある。ベトナムに限らず、アジアをエキゾチックな観光地としてしか理解できない人には、生涯無用の小説である。 |
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【講談社】
真保裕一
本体 2,000円
2001/5
ISBN-4062106566
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「文壇挽歌物語」
評価:D
十代の頃、友人間で<五木派>か<野坂派>か、ちょっとした論議が持ち上がった。一見、知的でスマートな風貌の五木寛之に反発を感じていた私は、よくわかりもせず野卑な趣の野坂昭如を支持したものだ。文学がまだ多少なりと、我々の心の一部分をしっかり捉えていた時代だった。アナーキズムの神様、深沢七郎で思い出すのは、ラブミー農場や夢屋のことだ。作家は発表する作品以外でも十分若者に影響力があったのであるが、編集者だった著者はその辺のことにあまり興味がなかったようだ。ズレているなと感じたことは他にもある。<異端>が著者の視野の内側にまったくない。当然、日本SFの黎明期も軽く黙殺だ。日影丈吉などを羅列の一部として扱っていることも納得できない。入れ歯や食べたところてんのことを書き残したいのなら、もっと範囲をしぼり込むべきだ。<文壇>などという時代錯誤な社会にこそ挽歌は相応しい。巻末には不備の多い索引ではなく、時代を俯瞰できる作品暦をつけてほしかった。
ところで<五木寛之>はすぐに変換できたのになんで<野栄開き雪>になるのだろう。パソコンにも認知されない作家になり下がったのか野坂は。 |
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【筑摩書房】
大村彦次郎
本体 2,900円
2001/5
ISBN-448082345X |
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「新宿・夏の死」
評価:E
この作家の、自作品に酔ったような文体がどうにも合わない。そのせいもあり、いくら内藤陳が褒めようと、これまで読む気が起こらなかった。この短編集を読んだいまもその印象はまったく変わっていない。新宿、夏、死、と考えただけでも暑苦しい三題噺の熱気は、最後まで字面から立ち昇ることはなかった。作者は団塊の世代に、ホームレスに、ゲイに、少年に、元プロレスラーに、ことあるごとに何がしかの断言をさせている。しかもどれもが根拠を示してほしいぐらい重みのない断言だ。その十把一絡げ的な発想と、妙な方向に力の入った文章とが私の体温を一気に引き下げるのである。だから季節は夏なのにちっとも暑くならない。この居心地の悪い上滑り感が評価のすべてである。それに、いい加減な関西弁も勘弁してもらいたい。言葉は作家の命ではなかったのか。福田和也の意図がほんの少しわかったような気がする。 |
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【文藝春秋】
船戸与一
本体 1,905円
2001/5
ISBN-4163200207 |
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「赤い月」
評価:A
四方を海に囲まれた国土で培われた心性は、アジアのどこへいっても部外者の域から脱却できない。大日本帝国国民の誰もが満州に抱いた幻想は、現地で暮らす人々にとって侵略という現実以外の何ものでもなかった。半径5m程度がせいぜいの視野で生きる波子の世界観が狂っているのではなく、それがアジアの盟主たらんとした、我が国の真実の姿だったのだ。猫が動くものに飛びつくのを叱っても詮ないのと同様に、大陸の中華思想や日本の軍事政策を今さら嘆いたって仕方がないのである。波子は間違っていない。エレナと王も正しい。人間の本質は拠って立つ位相に従って乱反射する。それを知らしめた作家・なかにし礼の筆力はすごい。植民地における被支配者の存在を一顧だにしない、マルグリット・デュラスの小説とある意味双璧をなすといえる。五族協和の美名に隠された欺瞞性を知りたければ、モンゴル青年の視点から<満州国>を描ききった、安彦良和『虹色のトロツキー』をお読みになることを強くお薦めする。 |
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【新潮社】
なかにし礼
本体 各1,500円
2001/5
ISBN-4104451010
ISBN-4104451029 |
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「超・殺人事件」
評価:A
傑作『名探偵の掟』をいとも簡単に跳び越えてみせたユーモア・ミステリの極致。この作家はほんとうに何を書かせてもツボを外さない。本書は誰にでも書けそうでいて、しっかりと東野圭吾的諧謔精神に満ち満ちている。ミステリ作家しか吐き出せない悪臭の数々、みっともない算段の一部始終が過剰な脚色で回転寿司のように、ぞろぞろ出てくる。海外の短編ミステリが逆立ちしても絶対に真似のできないジャンルは、真に日本的な作品だけだと常々思ってきたが、作家と編集者の付き合い方もまたこの上なくおかしな日本的風景だ。パロディーと見せかけて、定石を踏まえた油断のならない作品も混じっているから要注意。へらへら笑っているだけでは作者の罠にまんまと引っかかる。かくいう私も見事に引っかかった口である。 |
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【新潮社】
東野圭吾
本体 1,400円
2001/6
ISBN-410602649X |
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「野性の正義」
評価:C
より残虐により劇的により多くの血を。それがサイコ・サスペンスの必要条件だとしたら、本書に登場するサイコ・キラーの律儀さは特筆ものだ。なにしろあの<聖地>ベイツ・モーテルでの事件がおとぎ話にしか思えないぐらい、凄惨な犯行が何度も繰り返される。死体の数も蹂躙のされ方も半端じゃない。だが、その度にこちらのセンサーが相応の揺れを示したかといえば、そうでもない。実際、針は計器に固定されたままぴくりとも動かなかった。これではヴァーリ・トゥードを見慣れて刺激を感じなくなった単純な観客と同じだ。もう、そろそろこの種の小説は曲がり角にきているのではないだろうか。ストーリーは二転三転するが、作者が本気で犯人の正体を隠す気があったのかどうか疑わしい。 |
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【早川書房】
フィリップ・マーゴリン
本体 2,000円
2001/6
ISBN-4152083514 |
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「ビューティフル・ボーイ」
評価:AA
長女が五歳の頃、ごく短期間ではあるがシングル・ファザーの擬似経験がある。そしてわかったのは、男に仕事と育児の両立は非常に困難だということだ。父親と子供の間には詰められない距離感があり、自然界では無理は続かないようにできている。片方が無理をすれば、もう片方にはそのしわ寄せがいく。本書で苦闘するハリーの姿には身をつまされるが、親の都合で振り回される子供はもっと可哀想だ。なにはともあれ、泥仕合が本格化する前に身を引いたのは賢明だった。しかしこれはつらい選択だ。たった一度の過ちで豹変した妻ジーナのその後の行動は、極端すぎて子供を任せるには不安が残る。女性が自分の人生を取り戻すにはこんなやり方しかないのか。私には自然体のシングル・マザー、シドの無理をしない生き方の方がずっといい。 |
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【河出書房新社】
トニー・パーソンズ
本体 1,600円
2001/5
ISBN-4309203493 |
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