WEB本の雑誌>今月の新刊採点>【単行本班】2008年4月 >下久保玉美の書評
評価:
ヤクザとキリスト教。一見全く異なる、というよりも似つかわしくないこの両者の間に共通点を見出すならば「親」の観念だろう。キリスト教で「父なる神」と信じるようにヤクザの世界でも自分の親分を「親」として信じ、自らの身を危機にさらしても親である親分のために働く。本書ではこの「親」という観念を主人公が信念として持つことで物語が展開する。
しかし、主人公は自ら語らない。主人公の周囲の人々が主人公を気にかけている。それは時には好意を抱き、時には敵対しながら主人公について語る。自らは語らない主人公は「羊の目」を、世俗にまみれていない心を持ちながらも抗争で手を血に染める。それは唯一の親と信じる親分のためであるからだ。そして信じている親分から裏切られようともその信念を曲げない。
その姿は苦難にあっても神を信じる宗教者の姿と同じであり、信じるものがある者はない者よりも遥かに強い、ということを表しているのだろう。
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作者である打海文三氏は昨年十月お亡くなりになった。このニュースを聞いた時、また日本ハードボイルドの素晴らしい書き手がいなくなってしまったと感じた。そして氏の傑作戦争小説である『裸者と裸者』『愚者と愚者』に続く三部作完結編『覇者と覇者』が完成しないままとなった。本書解説で池上冬樹氏が言うようにもし完成されていれば打海文三の名前を広く広めただろうし、この三部作は戦争小説の新しい地平を開いたことだろう。こんなにも早く亡くなってしまったことがとても残念で、とても悲しい。
本書は生前、自身のブログで掲載されていた小説。編集者・フリーライター・小説家の三人は親密な交友を築いていたが、小説家の飼い犬が発生源と思われるSARSが東京で発生する。この大流行が三人の関係に変化をもたらし、三人を嵐のような悲劇へと導く。
作者の作品の特徴である人間の持つ弱さや暴力性、官能やタブーを描きながらもそれが単なるエログロで終わらないのは、まるで荒野に一人立つような孤独や悲壮を背後に感じずにはいられないからだ。嵐の後に残ったものは何なのか?まるで終わらない小説を読んでいるかのような気分になった。
このような書き手がいなくなって本当に残念で、本当に悲しい。
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自分の家族や友人、恋人についてどれぐらいのことを知っているだろうか。自分の故郷や今住んでいる地域について、日本や海外の遠い国についてどのくらい知っているだろうか。「知っている」と確信を持っていえることなど本当はとても少なくて、むしろほとんどないのではないだろうか。そんな疑問を感じながら本書を読んだ。
本書は主人公と聴力発話に不自由な女性との恋愛を縦軸に、主人公の手がけるドキュメント番組、タリバーンによるバーミヤン遺跡の大仏破壊と思われる、の取材を横軸に展開される。縦糸と横糸が織り合わさりながら、「お前は本当に知っているのか?」と読者に強く訴えることになる。あえて会話が成立しないという状況を作り出すことで恋人であっても全てを知ることはできないという事実を、また会話が成立してもその発言が嘘か本当か明確ではないというジレンマを提示することで「知る」ということの難しさに迫っている。
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戦前から戦後にかけて懸命に生きる女性たちを描いた連作短編集。驚くほど濃度の高い小説です。凝縮している、というよりも物語の要素の持つ濃度がとにかく高いという意味で。
戦前から戦後というこの先何が起こるかわからない混沌の時代からして濃い。東海テレビ製作の昼ドラの舞台に最も多く使われているだろうという時代です。濃くないはずがない。それにその時代に生きる女性たちもまた濃い。
第一話はヤクザの親分に身請けされた芸者がその親分の部下と一歩間違えれば死に直結する密会を重ね、第二話では親の借金のカタに金満家に売られ、モノ同然の扱いを受ける少女とその金満家の息子との恋が燃えあがり、第三話では東北から福岡に奉公に出た少女が明日戦場へ旅立つ青年と一夜の契りを結び、子どもを授かるが親に反対され家を飛び出し流浪し、第四話ではその高いプライドから恋心を伝えることもできずにいたお嬢様がその後現れた家格に劣る男性と愛を育む。
濃いですね。それぞれが情念の濃くまた官能にあふれた愛を持っています。全体としてトロトロとしているのでうっかりすると足がはまってしまうこともあるのでは。以前『雨の塔』が課題小説で出ましたけどそれよりも遥かに濃密。作者はこうした小説の方が面白いのだと思いますよ。
評価:
あらゆるジャンルの短編がなんと二十三作も入っているので何かはイイ!と思うものがあるはず。読む楽しみだけでなく見つける楽しみもあるわけです。全部イイ!というのならそれもまた良しというもの。
私はミステリが好きななのでどうしても奇想モノよりもミステリ短編に目がいってしまいます。「見えざる手によって」「息を切らして」の二編はなじみやすく面白く感じました。トリックは古典的ですが探偵役のサッカレイ・フィンの素人ぶりの滑稽さとトリック解決の鮮やかさがいいです。あとは背筋がスーとするような小説群。「超越のサンドイッチ」や「小熊座」のラストや「高速道路」の永遠に続くかに思われる旅の行方。「血とショウガパン」はグリムの「ヘンゼルとグレーテル」を下敷きにしたものであるがよくなじんだおとぎ話ではなく、とても残酷でグロい。
現実のような顔をしながら、ふっと見せる非現実が読者の足元を危うくし、不安定な気分にさせます。
評価:
ニューヨークを舞台に何らかの形でジャーナリズムに関わっている三人の男女とジャーナリズムの権威、そしてジャーナリズム界に革命を起こそうと意気込む野心家たちが織りなす人間模様とある日起きる大破局を描いています。この大破局がすごい。ここでこれかい!と感動すら覚えました。負け麻雀で卓をひっくり返すようなものです。やられた方、登場人物だけでなく読者はたまったもんじゃありませんねえ。
原題は『Emperor's Children』で『王様の子どもたち』。アンデルセンの『裸の王様』で王様が裸であることを暴くのは子どもであったという意味みたいです、あとがきによりますと。王様が子どもに裸にされたように、登場人物たちもどんどん裸にされ正体を暴かれていきます。一枚ずつ一枚ずつ剥いていくわけですがその剥き方がとにかく執拗。玉ねぎを一枚一枚剥いているのかってくらいに丹念に剥いていきます。これが深い人間観察というものなのでしょうか、大いに勉強になります。なんて登場人物たちは自意識過剰なんだろうとイライラしましたけど自意識過剰で当然ですね。だって剥く皮が多いほど剥き甲斐があるというもの。
でも、玉ねぎって剥いていくと何にもなくなっちゃいますよね。
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「あ、ティファニーで朝食食べる話じゃないんだ」というのが率直な感想です。こんな感想ですみません。でも考えてみればティファニーは宝石店でカフェじゃないから朝食なんて食べられるはずもないんですけどね。
本書にもあるようにティファニーは年齢や経験など何かを蓄積した人、つまり成熟した人物がいくのにふさわしい場所とヒロイン、ホリーが語ります。しかし、ホリーは成熟とはかけ離れた存在として描かれます。シリアルのように健康でレモンのように清潔な十九歳のホリーは何かを蓄積するにはまだ教養も経験も足りないのです。自由奔放にニューヨークの社交界を渡り歩き、気ままな生活を送っているちょっと足らない女の子ように見えますがその奥に見える不安を感じずにいられません。
実際に映画の方を見ていないからなんともいえないけど、オードリー・ヘップバーンとホリーはうまく重ならない気がしますが。こんど機会があったら映画の方も見たいです。
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