WEB本の雑誌>今月の新刊採点>【単行本班】2008年4月 >松井ゆかりの書評
評価:
個人的な話で恐縮なのだが、私は伊集院静のような感じの妙齢の殿方というのが最も苦手なのである。色男風で遊び人タイプ。そういった理由もあって、これまでにも伊集院氏の著作は「機関車先生」しか読んだことがない。その1冊と「羊の目」のみでこのような印象を持つのは早計に過ぎるかもしれないのだが、本書のようにいわゆる日陰者を描く方が著者のイメージからしたらしっくりくるような気がした。
そうは言ってもやくざという種類の人々のあり方には抵抗があるので(やくざの中にも人格者として慕われる人間がいるわけだが、なぜそのような人々が他人の命を道具のように使う仕事をやれるのか、私にはどうしてもわからない)、主人公の魅力を根本では理解できていないと思う。いや、やくざであるとかいう以前に、彼の心の動きにどうも最後までついていけなかった。それは伊集院氏の狙いなのかもしれないが。
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最近“犬もの”はトレンドなのだろうか。私はどちらかとういうと猫派なのでこれまで特に意識はしていなかったのだが、泣かせる内容のものからファンタジーものまで書店に行くとあらゆるジャンルの犬の話が揃っているような気がする。といってもここまで狂気をはらんだ犬を描いた小説はそうそうないだろうが。
恐るべき狂犬イエケが登場してしばらくは、不穏な空気が押し寄せてきたなとは思うものの、彼自身がここまで超越した存在だとは気づかない。しょっぱなから「嘘だろ」と思わずにいられないような事件などもあるにもかかわらず、「なんか、『ベルカ、吠えないのか?』とか『サウンドトラック』みたいな話なのかなあ」とか思いながら読んでいた(あ、どちらも古川日出男作品だった。いや、あれらも十分意表を突くような物語なのだが)。
それがまさかああなってこうなってしまうとは。打海文三ってすごい作家だったのだなあ。亡くなってから気づく作家の偉大さはいつも物悲しい。
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“とらえどころのない作家”と聞いて真っ先に(遅くとも5人めまでには名前の出てくる)思い浮かぶ存在、それが私にとっては吉田修一である。本書の前に出版された「悪人」はミステリー風味で「こんなエンターテインメント風な小説を吉田修一が?」と驚かされたものだが、今回もまた「こんなトレンディドラマのような恋愛小説を吉田修一が?」と思った。どんなものを書いても私にとっては「こんな○○を吉田修一が?」と思わされるのが、この作家が特異な存在であることを表しているのではないかという気がしている。
耳の不自由な相手との恋愛とはどういうものなのか。いや、恋愛にまで至らなくとも、聴覚障害者のことを身近には知らないほとんどの人があっと思わされる事実が繊細に描かれていた。著者としてそこをいちばんに読んでほしいわけではないかもしれないのだが、まだまだ自分には理解できていないことが多いと気づかされた。それでも当たり前だが人の心の根本はもちろんみな似たようなものなのだということも丁寧に描かれていたと思う。吉田氏はある意味いつもはぐらかされるが、筆力を疑ったことはない。
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私は長く祖母と同居していたこともあって、他の同世代と比べたら戦争というものに関心を向けている方だというつもりでいたのだが、最近それが“知識として知っている”レベルの域を出ないことを痛感するようになった。例えばかつての私は、戦地に赴く男子が未婚の女子と関係を持つことについて、美談というもので虚飾されたエゴイズムに過ぎないと断定していた。もし子どもができたらどうするのか。男子についてだけではない。女子の方にしても一時の激情にかられて「この人の子どもを生みたい」という方向にあっさり行ってしまうようだがもっと冷静になるべきだろう、と冷ややかに思っていた気がする。
しかし、本書を読んで少し考えが変わった。死と隣り合わせに生きるということは、平和な時代の人間にはほんとうには理解できないことなのだと。自分たちの命が国の未来にすり替えられる世界に生きるつらさは実感できないことなのだと。
この本に収められたどの作品の女性たちも、強く、自分勝手なところもありながら、潔い。
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本の帯というものは得てして誇大広告であることが多いものだが、ジョン・スラデックに関しては“最強の作家”というキャッチコピーは誠にふさわしい称号だ。この芸風の幅を見よ!しかし、これらの著作の魅力を理解した読者もえらいと思う。
私自身はSF者というよりミステリー者なので、やはり謎や密室などが出てくる「見えざる手によって」やその名もずばり「密室」などの作品群にぞくぞくさせられた。同じ思考回路からSFとミステリー(それ以外も)が一緒に出てくるのがすごい。乱暴な分類とは思うが、読んでいてところどころで清水義範氏を思い出した。最後に収録された「不安検出書(B式)」などまさにパスティーシュ。
このシリーズではいろいろな短編集を読んだが、ここまでバラエティに富んだものには初めて出会った。きっと著者本人も相当おもしろい人だったのだろうと思う。
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陳腐な感想ではあるが、この本を読んで人間の悩みというのはなんと多岐にわたるものかと驚かされた。親が子を案じるという身近なものから、著名な作家でセレブな家庭の娘ならではの(一般人にはまったくピンとこない)苦悩まで、悩みの見本市のようだ。
この小説がブッカー賞候補にあがったと知って意外な気がしたが(ガチガチの英国小説のための賞だと思っていたので)、終盤近くの展開をみて納得がいったような気がした。なるほど、9.11はアメリカ的な題材ではあるが、「え、このままで終わり!?」と作者を突き放すような結末に、シニカルさというか傍観者的な目線を感じた。
本書で最も印象に残ったのが親子関係の難しさである。ここで描かれている親子たちの年代にもうしばらくしたら突入していく身にとっては暗澹たる思いがしてくる。釘を刺してくれているのが著者の親切心なのだろうか。まだちょっと夢をみていたいが。
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同じような方は多くおられると思うが、初「ティファニーで朝食を」体験は実は映画である。原作者であるトルーマン・カポーティは、オードリー・ヘプバーンが主役ホリー・ゴライトリーを演じることに不満で、ほんとうはジョディ・フォスターに演じてほしかったと聞いた覚えがある。私もフォスターの大ファンなので彼女のホリー観たかったなと思うが、今となってはオードリー以外には考えられない気がする。しかし、ジョージ・ペパードは他に適任を当てはめることは可能だ。例えばジュード・ロウとか(イギリス人だけど。歌手でいいならベック)。
これって、「ティファニー〜」の翻訳についても当てはまらないだろうか。作品そのものの持つ魅力を表しているのがオードリー。昔の翻訳の味わいを体現するのがペパードで、時代の流れの中から生まれた村上訳がロウ(あるいはベック)。
映画や翻訳についての話が長くなってしまったが、もちろん小説自体の魅力というものがある。訳者村上春樹が語るほどには、カポーティという作家は私にとって速攻性のあるものではないのだが、その代わり何年も心のどこかに引っかかっていてある日突然効いてくる感じの存在である。つまりいずれにしてもやられているわけだが。
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