WEB本の雑誌>今月の新刊採点>【文庫本班】2008年8月 >岩崎智子の書評
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「男の恋は名前をつけて保存 女の恋は上書き保存」なるほど名言ですが、果たして皆さんはどうでしょう?さて、本篇のヒロイン、奈緒子の場合は、かつての恋人をなかなか忘れられず、彼と共に幾度も夜を過ごしたベッドでは眠れない。なんとまぁ、ナマナマしい。女性はそこまでセンチメンタリストではないと思うのですが、まあフィクションの世界だからいいでしょう。ですが、彼女がなかなか上書き保存できないのには訳がある。恋人・加地君とは、気持ちが離れたから別れたのではなく、彼の事故死で、突然関係が切れてしまったという経緯あり。そりゃあ、死んだ恋人には誰にも勝てません。次の恋人・巧の苦戦がしのばれます。ましてや彼等は親友同士で、お互いの事を良く知っていたのだから。でも、いずれ気づくんです。かつての恋を葬らずとも、また、その恋に勝たずとも、まるごとその人を受け入れることが出来るのだと。そんな境地にたどり着くまでの若い男女の物語に、奈緒子の両親の物語が、サイドストーリーとして絡む。
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引っ越したり職場を変わった時に、まず探すのが図書館と書店だった。なのに今は、実際行って本がないとイヤなので、なるべく無駄を無くそうと「ネットで調べればいい。そしてあったら、ネットで買えばいい」と考える。「古本道を究めた師匠・岡崎氏の指令を受けて、作家・角田氏が実際の書店を訪れ、依頼された本を探す」という本作の企画は、こうした発想とはまるで逆だ。体験記から自然と浮かび上がるのは、「本とは何か」「書店とは何か」ということと、便利さの代わりに我々が失ったもの。「(書店で)棚から棚を見ていくうち、忘れていたいろんなことがぽろぽろぽろぽろ勝手に思い出(p21)」された経験。「とおりいっぺんの現実とはべつに、時間の沈殿する不思議に静かな空間を、その魅力を、知って大人に(p108)」なっていった学生時代。鎌倉の古書店を訪ね、今は亡き米原万里さんを訪問した、なんてエピソードもある。意外だったのは、幕張メッセに行くための通過駅や、出張で新幹線に乗る出発地点としか見ていなかった東京駅構内に、古書店があったこと。せかせかした日常から離れたくなった時、訪れてみようっと。
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ジュニアサッカーチームで、当然キャプテンにもレギュラーにもなれると思っていた遼介。しかしそのどちらも叶わず、失意のもとにいた彼の前に「サッカーを楽しもう」と言う新監督・木藤が現れる。「ああ、少年サッカーの話か」と思ってしまうと見ずに済ませる人もいるかもしれないが、こんなシチュエーションは、会社でもあり得る。望むポジションが意外な人物の異動によって奪われたり、ふと視点を変えて見ることで、仕事が面白くなったり。「なりたい自分」と「今の自分」の間で悩んだり。つまりは舞台が違うだけのこと。メインキャラは遼介と木暮&峰岸といえるが、その他の登場人物への描写も行き届いている。しかし逆に、物語が散漫になってしまった印象も受ける。例えば、同じスポーツ小説でも佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』ならば、もっとメインキャラクターの部分を掘り下げていたな、と思う。まあ、こうした感想は、「群像劇が好き」「主人公を絞って描いた物語がいい」など、読者の好みによっても変わるのだろう。
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社会主義国の「私立探偵」といわれても、イメージが湧きにくい。共産国家では、まず国家の利益が優先され、「誰か(何か)を探して欲しい」という個人的な願いを口にしない人達ばかりなのでは?と思ったからだ。ところがそれは大間違い。「私はずっと党の命令に従ってきた。(中略)だが何が手にはいった?希望もないまま立ち往生さ。(p69)」国家よりも個人の思いを重んじるような、こんな言葉が出てくるなんて、中国も変わったものだ。だからだろうか。ヒロインの私立探偵・王梅のキャラ設定も、資本主義国家(英米)に登場するアウトロー探偵に、とても良く似ていた。「人付き合いはよくないし、駆け引きもできないし、関係(グアンシ)もない―必要なネットワークやコネがない(p11)」。世渡り上手ではない事に加えて、「中国国家警察の公安部」という超エリートばかりの職場をスキャンダル絡みで退職した過去あり。私生活に目を向けると、成功したビジネスマンと結婚した妹に対して、恋人と別れた王梅は、父の死を巡って母と対立。英米ものと似た部分がかなりあるが、展開は穏やかで、勧善懲悪をはっきり見たい読者にとっては、やや物足りないかもしれない。
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「自分に似た人間なんかいない。」と公言しつつも、「ルックスでは 自分は中の上」などと言う。「自分はこの世でただ一人」である事にプライドを持ちつつも、外部の基準でラベルづけされたい。そんな矛盾したところが、人間には少なからずあるようだ。でも、そもそも、その外部の基準って、そんなに信用できるもの?さて、本書でさまざまな「外部基準」が飛び交うのは、知能についてだ。「ルックス」なんて曖昧なものは、「その判断基準って何?」なんてツッコめそうだが、知能は「知能テスト」がある。数値で計れるものならば、多少は信頼できるかも。ところがそれが大間違い。ここではさまざまな学者達の測り間違いと、偏見が取り上げられ、その偏見ゆえに、どれだけいわれのない人種、性別、階級による差別が為されてきたかが明らかにされる。「油断のならない、ずるく、臆病なモンゴル人種(p115)」 なんて書かれていますよ。どうしますか、皆さん?最初からある結論を導きだすために実験をして、値をごまかすなんて、理論を重んじる学者がやっていい事なんだろうか?ところで、他人を批判するにめっぽう鋭い彼のペンも、自説の展開という面から見ると、やや緩く感じる。
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今年6月から、某電機大手では、展示会の説明員がユニフォームでブースに立つそうだ。背広姿だと、来場者と紛れてしまうかららしい。このように服装には、「他者との差別化」という意味があるが、本書に出てくるマイヨ・ジョーヌ-黄色いジャージ-には、もう一つ別の意味がある。このジャージは、3週間かけて3500kmを走破する世界一過酷な自転車ロードレース、ツール・ド・フランスで、総合成績一位の選手にのみ与えられる。つまり、このジャージを着る者には、名誉が加わるのだ。人生の絶頂にあった超一流自転車選手ランス・アームストロングが、睾丸癌で闘病後、ツール・ド・フランスに挑戦する。当然、名誉を求めての挑戦かと思うが、そこはタイトルであっさり否定されている。「では、一体何のためか?」それは本書でお確かめあれ。体験記の類は数多く出されているが、正直全てが自分に当てはまるわけじゃない。でも、苦しみも悲しみの種類が違っても、共感できる思いや決断はきっとある。そう感じたものの一つが、自堕落に暮らすランスを恋人(のちの妻)が諌めるエピソード。「本当にその人を愛する人の言葉ならば、例えその言い方がキツかろうと、ちゃんと胸深くに留まるのだな」と感じた。
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ベトナム戦争で伝説の狙撃手と呼ばれたボブ・リー・スワガー。アメリカにいるボブを、彼の父親アールと硫黄島で出逢った日本兵・矢野の息子フィリップが、日本から訪ねて来る。父親が持っていた刀を探しに来たフィリップに快く協力することを請け合ったボブだが、日本では手荒な歓迎が。硫黄島は、クリント・イーストウッドの映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の舞台でもあり、比較的知られている。自分の住んでいる日本が物語の舞台となるのは嬉しいが、違和感を抱く箇所アリ。戦中の硫黄島で、ある兵士のこんな思いが綴られている。「このすぐれた兵士たちが、生きていれば多大な貢献がなせるはずの彼らが、死守する意味などなにもないとしか思えない、この硫黄の島の黒い土のいただきで死んでいくとは。天皇陛下のため?(中略)天皇は気晴らしの(それゆえ有用な)儀式を編み出すのに役に立つ虚構、人間としてのみ存在を許されていた」人間宣言が為される前において、ここまで天皇を客観的に見られた日本人がいたとは思えない。ちょっと作者がサムライ日本に陶酔し過ぎでは?
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