第5回 創刊号を読む 1

「ロッキング・オン」創刊号とは、どのようなものだったのか。扉ページには「隔月刊の真にロック的なロック専門誌」というキャッチフレーズや誌名の下に、「我々は現在のロック・ジャーナリズムに対して一切の希望を持たないし、直対応的な怒りも持たない。ただあるのは冷たくさめた視点だけである」と挑戦的な巻頭言を掲げていた。だが、実際にできたB548ページは、未熟な代物だった。

 渋谷陽一のエッセイ「メディアとしてのロックン・ロール1」や橘川幸夫『ロッキング・オンの時代』によると、創刊時の同人には雑誌製作の経験がある者がいなかった。このため、音楽評論家を始めていた渋谷が、「ミュージック・ライフ」の仕事をしていた石野真知子にデザインやレイアウトを頼んだという(石野は、加藤文子、加部燎子のペンネームで創刊号に寄稿もしている)。だが、そのしあがりは、渋谷たちを落胆させた。レイアウトは単調なうえ、岩谷宏の長文原稿は、最後の1ページ分の文字が表3にこぼれている。また、赤字に白抜きで「Rockin' On」のロゴが並んだ表紙は、岩谷宏の仕事仲間だったデザイナーの望月幸男によるもの。この表紙を見た渋谷は「なんかデパートの包装紙だよ」と嘆いたと、橘川は書いている。渋谷本人は、すぐに2号を出したくて、早く創刊号を回収したかったと振り返り、なぜそう思ったかをこう語っていた。「あの変にチマチマしたレイアウトと、包装紙のような赤い表紙を見ると、意味もなくギャッと叫んで走り出したくなる恥ずかしさを感じるからである」。

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 誌面が平板になったのは、レイアウトのせいばかりではない。雑誌の中ほどに渋谷と岩谷が1作ずつアルバムを評したレコード評の1ページがあり、巻末に音楽と関係のない本をとりあげた書評の3ページが配置されているが、それ以外は特にコーナーと呼べるものはない。先の巻頭言と「ロック・ジャーナリズムの中においてはこれに比すべき雑誌はないし、比べるという事自体不可能なことだろう。ただそれだけの自負だけでも大きいと考える」と記した渋谷名義の編集後記があるくらいだ。それ以外は、各人が好きに書いた音楽論が並ぶばかりだし、しかも長さはまちまちで文字数を事前に決めなかったと推察される。端的にいって素人の作文集の域を出ていない。とはいえ、ここには後の時代の「ロッキング・オン」につながる要素も見出せる。創刊号をあらためて読んでみよう。

 目次のクレジットをみると、「創刊発起人 渋谷陽一」と記されているのが、いかにも同人誌の出発らしい。実際の記事の並び順をどこまで意図して決めたかはわからないが、最初に「April Fools Day ロックコンサート(無名バンド総決起集会)を開いて」(加藤文子)を掲載したことには、雑誌の性格があらわれていたと思う。タイトル通りの自主イベントを筆者が友だちとともに催した経験を語ったものだ。日本ではまだ新奇なカルチャーだったロックを「定着」させるための悪戦苦闘を綴っている。この雑誌は、ロックの聴き手が演奏家と対等の主体となって批評するという渋谷の発想から出発している。その点で自主イベントの開催などは、主体的な聴き手の行動として象徴的なものだっただろう。

 渋谷は、自身が「ロッキング・オン」の前身と見なす同人誌「Revolution」の最終号で「ニューミュージック・マガジン」主催の「日本ロック・フェスティバル」を批判し、イベントのあり方を問うていた。それを視野に入れると、自主イベント開催の原稿の掲載は、問題意識の継続のように受けとれる。

 続いて登場する原稿は、しばらく後に同誌の人気ライターとなる松村雄策の「アビー・ロードへの裏通り」である。彼は、「ロッキング・オン」創刊の前年にあたる1971年にビートルズが正式に解散して以後のジョン・レノンに対する複雑な思いを吐露している。この記事と先に触れた扉ページには、後期ビートルズの演奏する写真が使われてもいる。

 松村の次には渋谷の「アリス・クーパー試論(I)-ヤードバーズより遠く離れて-」が載っている。ブルースとロックの関係史を考察していて、創刊号のなかでは最も音楽評論らしい文章である。興味深いのは、彼が自らのデビュー作と位置づける前年発表のグランド・ファンク・レイルロード評(「ミュージック・ライフ」19716月号)で示したのと同様の現状認識から書き出していることだ。「ロックというネバついた触覚を最大の属性として持つような音楽も、時がたつにつれて乾燥しインテリ臭くなっていくものらしい」と始まる「アリス・クーパー試論(I)」は、ハード・ロックのいきづまりと、厭世的ポーズだが実は自己肯定的なソフト・ロックの台頭という状況への批判が出発点であることが、デビュー原稿と共通する。松村はビートルズ解散という一つの終わり、渋谷は前記のような過渡期という認識から思考を進めていく。

 ロック喫茶に集まっていた若者たちが、先の見通しも立てないまま雑誌を作ったのだ。渋谷や橘川の回顧的文章からも、いけいけどんどんの新興文化だったロックの勢いに便乗したというノリはあったと感じられる。だが、中心メンバーでもある松村、渋谷は、終わりや過渡期に際して、あらためて愛好する対象を顧みることから始めていた。やや内省的で文学的だったといえる。そうした傾向は、初期「ロッキング・オン」のカラーともなる。

 松村は原稿で詩人・清水哲男のビートルズに関するエッセイ「青春は不愉快だ!」(「サブ」季刊2号 特集ビートルズ・フォア・エバー、1971年)から引用しているが、ほかの書き手にもの文学・思想関連の言及が散見された。なかでもその種の固有名詞を多くちりばめていたのが、岩谷宏「エマーソンレイクアンドパーマーろん」だ。エマーソン・レイク&パーマーだけでなく様々なバンド、アーティストへの評価と社会批評が述べられている。断章形式で「文明と体制は「壁」の「保身策」である」のようなアフォリズム的な断言を重ねる構成は、論理的というより直感的で詩的な書き方でもあった。そのなかに三島由紀夫、川端康成、小田実、滝田修、平岡正明といった作家、評論家の名が、次々に出てくる。しかも、誰に対しても批判的・否定的な言及なのだ。それでいて「論」を「ろん」と表記した題のように、口語的で軽口のようなフレーズ(例「まあ、あいつらのことはどーでもいい」など)を多用している。1970年代の「ロッキング・オン」において岩谷は、戦闘的であると同時にざっくばらんで軽妙なところもある語り口で読者に支持され、やがてカリスマ的な存在となる。

 一方、「ロッキング・オン」の原稿というと「自分語り」を思い浮かべる人も多いかと思う。創刊号でそのイメージに最も近いのは、橘川幸夫が塚脇功名義で発表した「無題」だろう。「〈ロックとは何か?〉を問う力量も問題意識も欠けている僕は〈何故ロックか?〉を問う事になる」という最初の一文が、雑誌の性格をよく表現している。客観的に〈ロックとは何か?〉を問うのではなく、自分が選ぶのは〈何故ロックか?〉を語るのが、この雑誌なのだ。橘川は、渋谷がDJをしていて創刊同人がたむろしていた新宿のロック喫茶「ソウルイート」での思い出に触れつつ、自分とロックの関係を語る。彼は、1971年夏に「ソウルは潰れた」と書くと同時に「外ではロックミュージシャンの来日で企業ベースのロックブームであったが僕は自身の内部にロックの死骸を確認しながらシラケていた」と思いを明かす。「最早僕はロックに浸る事なくロックを鑑賞するのである」と当時の気分を綴った橘川は、松村や渋谷が持っていた終わりや過渡期の感覚を共有していたのだろう。

 ちなみに橘川と岩谷は、どちらも文中で永山則夫に触れているのが目を引く。1968年に連続射殺事件を起こした永山は、当時19歳の少年で死刑適用の是非が議論された。獄中で執筆活動をした彼は、1971年刊行の手記『無知の涙』がベストセラーになり、貧困や虐待など不遇な生い立ちが知られるようになった。岩谷が「永山則夫的愚行にはしるには、いまのあたしゃ、インテリすぎる」と露悪的に突き放したのに対し、橘川は新宿を河に喩えた永山の文章を引用して「永山則夫がこう書いた時彼も〈海〉を渇望しながら新宿というどぶ河に流され続けていたのだ」と、同時代の新宿にいあわせた若者としての共感めいたものを書きとめていた(永山は後に『木橋』など小説を発表。1997年に死刑執行)。

 また、「序論・おれにとってのロック」といういかにもなタイトルで書いていた久保直とは、初期「ロッキング・オン」で営業を担当し、渋谷、松村、岩谷、橘川の創刊4人組に準じる立場だった大久保青志の筆名だ。自身の愛好する音楽あれこれについて書いたこの原稿には、「おれたちの社会が資本主義生産様式の上に成り立っているとき」などというフレーズが当たり前のように登場する。それは、すでに退潮に転じていたとはいえ、資本主義対共産主義の図式で革命を議論することが当たり前だった学生運動の名残りのようなものだった(先の岩谷の原稿にも「革命」の語が複数回出てくる)。

 さらに創刊号巻末では黒井鬼吉が、1960年の安保闘争にかかわった歌人・岸上大作の『意志表示』の書評を寄せ、70年安保闘争の運動家たちにも影響があった評論家・吉本隆明に岸上が言及した部分を引用している。学生運動や永山則夫は、1960年代後半~1970年代初頭の社会と個人の軋轢を象徴する事象である。それらと同時代のカルチャーとしてロックはあったのだった。

 先の「序論・おれにとってのロック」で注目したいのは、「この雑誌の編集者であるS氏は、常々ロックに必要なのは相互批評の定着化だと言って」いたという証言である。「S氏」とは渋谷のことだろうが、創刊号に対談やクロス・レヴューなど論を直接ぶつけあうコーナーはない。だが、掲載原稿を読むと、渋谷と意見が違うらしい書き手が散見されるのだ。

 既述の通り、渋谷は、ハード・ロックのいきづまりに対する自己肯定的なソフト・ロックの台頭を批判していた。「ミュージック・ライフ」のデビュー原稿で彼は、その例として最近のスティーヴン・スティルスやニール・ヤングなどをあげた。また、渋谷はもっと前から非ロック的表現を嫌っていたのであり、「アリス・クーパー試論(I)」では「ロック・アンド・ロールがポシャッてからは数年間の不毛なキャロル・キング全盛時代が続く」と書いていた。それに対し、大久保青志は、自分の音楽的感性を満足させるグループとしてスティルスやヤングが組んでいたCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ & ヤング)をあげている。作曲家からシンガーソングライターに転身して1972年に『つづれおり』をヒットさせていたキャロル・キングに関しては、大久保宏が収録曲の詞を論じた「「ビューティフル」とは何か」を寄せている。渋谷が評価しなかったアーティストに注目した原稿が載ったわけだ。そのうえ、加部燎子「うたえないコロッケのノート」は、フォーク歌手の友部正人について書いている。渋谷好みのラインナップではないのだ。

「序論・おれにとってのロック」で大久保青志は「いままでに多くのロック関係のミニコミ誌が現れては消えていった」としつつ「各自の文章を相互批評していく原則のもとに創り出されようとするこの雑誌は、新たなロック誌として存在するかも知れない」と期待を言葉にしたが、「それは今おれには解らないことである」と自信のなさももらしていた。

 相互批評とまでは呼べないけれど、とりあえず誰もが自由に発言できる場として、「ロッキング・オン」は出発した。同誌は、しぶと生き延びていく。