第9回 お通しに文庫本、デザートに朝を

 店名を決める時、冠を「古本屋」にするか「古書」とするか悩んだ。「書肆」というにはいささか間抜けな自分である。苗字に書店とつけて「○○書店」というのは硬派でかっこいい気もしたが、少し愛嬌がないかもしれない。「文庫」というのは、口がごもごもしそうだとあれこれと悩んだ結果、「古本屋弐拾㏈」というので落ち着いた。古書店ではなく古本屋。あくまで、町の商店のような店になれたらいいと思っていた。

 外看板にも「古本屋」と書いている。看板を見て、店内に本が並んでいれば、誰もが古本屋だと思うだろうと疑いもしなかった。が、実際にはそうでなかった。平日の開店時間が深夜であるため致し方ないことではあるけれど、呑み屋と間違えられることが度々ある。スーツ姿の男性が二人連れだってやってきて「二人いける?」と聞いてくる。僕は最初、訳も分からず「はい、入れますよ」と答えてしまう。男性たちもおもむろに椅子に腰掛けるが、ここが呑み屋ではないことに気づいたのか申し訳程度に本に触れて帰っていく。お通しに文庫本を出すべきだったか。

 昼間の営業では本当に多くのお客さんに「ここは本を借りるところですか?それともここで読んで帰る場所ですか?」と聞かれる。看板に古本屋と書いているにも関わらず、なぜか本を買う店とは思われていない。ここを貸本屋(もう絶滅したはずなのだが)か私設図書館か何かと勘違いされてしまっている。たしかに、店内には椅子やソファなどを幾つか用意してしまっているので、そう思われても仕方ないのかなとひとりごちる。もともとは開店当初、本の在庫が少ないのをごまかすため、物件に残されていた椅子や拾ってきたものを置いただけの話なのだが。

 深夜に来る酔客と喧嘩のようになることもある。尾道で久しぶりに集まった同級生らしき男性三人組。二〇年前に東京に移り住んだという。地元に帰省したついでに、僕のような若い店を捕まえて「昔の尾道はこうじゃなかった」と言う。久しぶりに見た尾道の街の変わりようにたまらなくなったのだろう。気持ちは分かる。分かるがしかし、それを二十も歳の離れた若造に絡みながら言うのは恥ずかしくないのか。彼の言葉に噛みつき、売られた喧嘩をまんまと買う。「あなたが生きた二十年分の尾道と、僕の五年分の尾道を天秤にかけてどちらが重いかなんて測れないじゃないですか」と返すと「え?五年もやってるの?」と驚かれる。たしかによくもまあ続いている店だなと自分でさえ思ってしまう。すると、僕の知り合い客が男性の後ろのほうで、「締め出そうか?」とジェスチャーで伝えてきた。なんとまぁ恐ろしい店だろうか。

 店を始めて驚いたのは、そもそも古本屋に行ったことがないというお客さんの多さだった。「初めて古本屋で本を買いました」と言ってもらえたりすると、店主冥利につきるのだが、初めてがうちでよかったのだろうかと心配になる。本の扱い方や、店内でのマナーのような部分も口頭で伝える。本を雑に扱われると、もちろんこちらも不機嫌になってしまうが、何が雑かどうかというのを知る機会が今までなかっただけなのかもしれない。最近では写真だけ撮って帰る人も少なくない。店に入るなり、開口一番「写真撮っていいですか?」と聞かれてしまうと少し困る。はるばる店に来てくれる方もいるし、記念や思い出に撮りたくなる気持ちは分かる。でも、順番が違うと思う。写真よりもまず、棚を見て欲しい。欲しい本がなくとも、どんな本があるかは一度店内をぐるりとみて、そのあとに声をかけてもらった方がありがたい。それも、店内に他のお客さんがいれば気を遣って欲しい。撮影不可というルールを作りたくはない。お互いに気遣いあいながら、その時の正解を見つけたい。

 嬉しいことも沢山ある。町に暮らす大学生が「今日バイト代入ったので」と本の山を抱えて番台まで持ってきたこと。自転車旅で立ち寄ったお兄さんがいつの間にか移住し、「初任給もらったので」と日焼けした顔で本を買いにきたこと。引っ越しでこの町から離れる女性が「吉本ばななは卒業しようと思って」と深夜、売りにきたこと。奥さんと喧嘩しちゃってと、うなだれた男性と初めてゆっくりと話したこと。結婚したらなかなか夜には来れないからと、初めてその人の人生を聞いたこと。そういう誰かの人生の瞬間に立ち会うたび、古本屋という冠にして良かったと思う。売っているのは本のはずなのに、僕の手元にはなぜか沢山の誰かとの時間が残っている。

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