第10回 僕は中原中也

 高校生の頃、中原中也に心酔した。僕にとっての詩人の姿は彼によって始まったと言っても過言ではない。中原中也に惚れていた。それは一目惚れだった。

 高校一年生の夏休みの直前、好きになった女の子に思い切って告白をしたものの、翌日メールにてあっけなく振られてしまった。夏休みの初日だった。僕は彼女からのメールの文言を何度も見返し、その淡泊さに溜息をつきながら自転車に乗って本屋へと走った。買う本は決めていた。太宰治の『人間失格』。大学生だった兄からお勧めされていた本だった。こういう日に読もうと決めていた。新潮文庫の陰鬱な表紙。家に帰って、さっそく祖母の部屋で読み始めた。部屋は緩くエアコンが効き、祖母はベッドに横になっていた。この時のことは今でもよく覚えている。あっという間に読み終えた僕は、思わず天井を見上げた。悲劇の話のように見せて喜劇でもあり、くすりと笑ってしまう。そして何より自分ただひとりに語りかけてくれているような感覚に落ちる。これは僕の物語だと思わされる。ただもう面白い。そうして、これだと思った。僕は文学だ、と。失恋をきっかけに、僕の文学青年時代は始まった。

 太宰を知った僕は彼と近しい文学者を探して中也に行きついた。太宰から中也へ。国語便覧だったか、あの特徴的な中也の写真に強く惹かれた。詩人という生き方に心のどこかで憧れがあったのかもしれない。親に買ってもらった岩波文庫の中原中也詩集が当時の僕にとってのバイブルだった。


 トタンがセンベイ食べて

 春の日の夕暮は穏かです

 アンダースローされた灰が蒼ざめて

 春の日の夕暮は静かです

              「春の日の夕暮」より


 彼の第一詩集『山羊の歌』の最初に収められた詩。ぱっと読んで理解しにくいのに、その情景が自然を自分のなかで浮かんでくる。声に出して読みたくなる。学校の帰り道、夕日に染まる町を見ながら、思わず一節を口ずさむ。


 愛するものが死んだ時には、

 自殺しなけあなりません。

 

 愛するものが死んだ時には、

 それより他に、方法がない。

                 「春日狂想」より


 息子、文也を亡くして書かれた詩「春日狂想」をはじめとして、中也の作品には死を歌ったものが多くある。「死別の翌日」「また来ん春」など、僕は読みながら訳も分からず涙を流していた。ただ悲しいというよりも、悲しみのなかに激しさがあり、そこにおどけたような壊れた明るさがある。担任の国語教師に中原中也が好きだと話すと、「ダダイズムかぁ・・・」と苦笑いされてしまった。当時、僕は七〇年-八〇年代のパンクロックにはまりはじめていた時期だったので、ダダイズムとの相性はよかった。虚無と破壊。中也のダダ詩を読んで、高橋新吉を知り、萩原恭次郎を知った。詩はかっこいいものだと思った。

 中原中也に憑りつかれたようにのめりこんだ僕は、彼と長谷川泰子、小林秀雄との三角関係や喧嘩早い彼の生き方にも興味を持った。彼の人生そのものが詩だった。いつしか、空で詩を朗読するようになった僕は、自分自身が中原中也になった気分だった。詩人になりたいと思った。というより、中原中也になりたかった。いつしか書きはじめた自作の詩はどれも中也節。オリジナルのつもりで書いてはいるものの、それは言葉のコスプレに近かった。「大学に行くなら、文学部に行こう。文学部に行って中原中也の詩の研究をしよう」と思った。中原中也にしては優等生な目標だった。

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