第20話 冬のこと

 家を出て坂を下ると小学校の裏手に桜並木がある。木は人ひとりが通れる小道に覆いかぶさるように伸びて、静かに在る。家から店へ行くにはこの道を必ず通る(もちろん帰りもこの道を通る)ので、必然的に視界に入る。毎日挨拶するように枝の下を通る。挨拶だとかしこまりすぎている気もするので会釈程度かもしれない。春の薄ピンクが散る姿は映画のようだった。夏は上から毛虫が降ってこないかと怯えた。秋になって一枚ずつ落ちて、気づけば裸ん坊になっている。去年の十二月末から今の家に暮らし始めたのでちょうど一年だ。

 開店前に近所のコンビニ「ポプラ」でホットのゆずレモンを買う。

「もう寒くなったね」店員のお母さんに声をかけられる。栄養ドリンクやポカリを買えば「風邪ひいたん?」と心配される。体調が購入物でばれてしまう。「煙草、やめたらいいんですけどね」と言いつつ、ハイライトも一箱。このコンビニは二三時に閉店するので、予め買っておかないといけない。バトンタッチする形で僕も店を開ける。咳をしながら、外で一服。

 冬の暖房は石油ストーブだ。大きいダルマ型と赤い小型の二つ。どちらも開店当初に友人から譲り受けた。レトロでいいですねぇとお客さんには声をかけられるが、演出で使っているでなし。家賃が光熱費込みの都合上、冬はエアコンが使えない。仕方ない気持ちが強い。と言いつつも、ストーブの上に薬缶をおいて夜を過ごす時間は気に入っている。沸いた湯で茶を煎れる。縁の欠けた湯呑は学生の時から使い続けている。都合があえば、お客さんにも振る舞う。(毎回ではないので、飲めたらラッキーぐらいに思ってください)常連さんと喋りながら、初めてのお客さんにもお茶をだすことで、ゆっくりしてくださいというメッセージになればいいと思ったりする。サークルのような空気感の店は苦手だ。なるべくそれぞれが、それぞれに居れる場所でありたい。

 扉が開いた。「いらっしゃいませ」と顔もあげずに言ったが、人の歩いてくる気配はない。入口まで行くと誰もなく、半分開いた扉から冷たい風が吹くだけだ。建付けの悪い扉はこの建物が医院だった頃のままを使っている。表から押して開ける仕様なので、風が強い日は何度も扉がひとりでに開いてしまう。もういっそ、今晩は鍵でもかけてしまおうかと思いつつ扉を押し戻す。

 何年前だったか、雨が降り、お客さんが誰も来ない夜だった。雨は深夜二時をまわり風に変わった。店を始めてまもない頃で、この悪天候では客足がないのも仕方ない。風は何度も扉を開けようとミシミシと音を立て、いよいよ限界と勢いよく開いた。力なく扉へ近づくと女性が一人立っている。「ほんとうにやっとるん?」と驚いた様子だ。扉を指でちょっと押したら開いてしまった、という。ほろ酔いだった。

「早く閉めたほうがいいんじゃないん? 外、誰も歩いとらんよ」
「でも、お客さんが来てくれましたから」

 こんな瞬間があるから、深夜営業はやめられない。店内で流れていたユーミンに声を重ねる彼女の背中を僕は眺めていた。

 十二月ともなると、店は閑散期だ。アーケードを歩く人はまばらで、町もどこかひっそりとしている。通りで酔客を待つタクシーの行列は一台もない。いつものノラ猫はどこにいるのだろう。ラジオから通行止めの交通情報。山のほうは雪が降っているらしい。

 扉がまた、開いた。誰も来ない店で、冬が一人やってくる。