第21話 銭の色、匂い

 電話が鳴る。出ると電子決済の営業だ。「すみません、うちは現金主義なもんで」と濁す。僕の店は電子マネーどころかクレジットカードも使えない。数百円の本に手数料がとられてはたまったものではない。導入しないのは店主の勝手、自分のわがままだ。お客さんは不便に違いない。いつの日か「現金しか使えない店がまだあるんだ」と言われる未来が来るだろう。ひとつくらい、そんな店があってもいいじゃないかと開き直る。

 青年二人が思い思いに棚を眺めている。時折来ては本を買う。気どりのない感じにこちらも和む。すこし変わっていると言えば、別々に会計するのではなく、いつも一緒に会計するところ。一緒に本を選び、互いの財布からお金が出される。その夜、二人が選んだ本を合算すると彼らの手持ちが足りなくなりそうだった。僕は「お金はまた今度でいいから」と、一冊分おまけして夜へ見送った。すると十分も経たず、彼らは店に戻ってきた。一人の手には大量の小銭。互いの百円玉をかき集めてもってきてくれたのだった。受け取った硬貨は熱を帯びている。

 大学四回生の時、ゼミ旅行で東京を訪れた。卒論に必要な資料を探すため、国会図書館と日本近代文学館をまわる硬派な旅行だ。駒場公園にある日本近代文学館は、夏休みになると卒論用の資料を求める学生の姿がよく見られる(と担当教授が話していた)。複写サービスを利用し、あらかたの資料をコピーする。せっかくなのでレファレンスにかけあい、中原中也の処女詩集『山羊の歌』の初版本を見せてもらえることになった。二〇〇部しか刷られなかった、貴重な本。受付カウンターで立ったまま頁をめくる。思っていたよりも大きな本だ。詩集独特の余白の白さがまぶしい。「春の日の夕暮」「サーカス」「汚れつちまつた悲しみに」。詩の一行、一行を目に焼きつけるように追う。文庫で読んできた詩とまったく別の作品に感じる。一生、この本を読んだことを忘れないでいようと思った。僕はおそらくこの本を買うことはできない。仮に将来買えたとして、この時と同じ感動を抱けない。

 開店当初、店の顔になるような本が一冊あれば良いなと思い仕入れた本があった。アンヌ・クレビョン『PINK LETTER』(海人舎)。アンヌとは北園克衛のペンネーム。たった一篇の詩と高橋昭八郎の挿絵が一つ。本というよりも、詩人が書いた手紙と言ったほうがいい。微かな冊子だった。限定二四〇部というのもあったが、一万円という強気の値段を付けた。古本屋の本の値段は意思表示、表明である。今思えば、かっこつけてもいた。興味を示す人は何人かいたか、もちろんすぐに買い手は表れず一年が過ぎた。

 夏の盛りを越え涼しい風が吹いていた、ある夜。ひとりの女性が声をかけた。「ガラスケースにある本が欲しいのですが」。それはあの『PINK LETTER』だ。あまりにもさらりとしていたので、こちらも慌ててしまう。「高いですけど大丈夫ですか?」「大丈夫です。これを買うために九州から来ましたから」。聞くと唐津でゲストハウスを開業するという。それから数年後、彼女が切り盛りする宿へ泊りに行ってみた。帳場横には額装された詩人の手紙がある。

 

 

「緑の風のなかで

光っている

アラジンのランプのように

あなたは私のすべてです

 

私はいつもあなたから

幸福を買ったり盗んだり

しています」

北園克衛『PINK LETEER』より

 

 雨の降る日に買った本をタオルで包むお客さんがいた。ポチ袋からお年玉を出して本を買った小さなお客さんがいた。「自分の体で稼いだお金で本を買うのが最高」と話すお客さんがいた。本にレジ袋をつけるか尋ねると「抱きしめて帰ります」と言ったお客さんがいた。

 お金には色があり、匂いがある。匂いのあるお金をやり取りしていたい。コンビニへ行くと、いつの間にかセルフレジになっている。レジ袋も有料だ。当然だと思っていたシステムは気づけばアップデートされている。自分は若いと思っていたらどんどん時代の流れに置いてかれている。そうか、僕はもう三十歳か。古本に埋もれて暮らしていたら、中也が死んだ齢まで生きてしまった。