第19話 ほんの出来心

 ぶつかることはないのだろうか。彼を町で見かけるたび、つい眺めてしまう。短く切りそろえられた髪、半袖半ズボンから伸びる日焼けした四肢は健康体そのものだ。片手で本を持ち、もう片方で頁をめくりながら道を闊歩する。いつすれちがっても本を読みながら歩いている。口元を緩めて笑っていることもある。彼を見つけた時は、「二宮金次郎か」と心で嬉しくなった。僕は彼が何を読んでいるか知らない。どこに行くのか、どこに帰るのかも知らない。知らないが、彼とその本が羨ましいと思う。

 自分はと言えば、読みたくて買ったはずの新刊本が部屋の隅にすこしずつ積み重なる。掃除するときの障害物を増やしているようなものだ。ぺらぺらと読んでいるか読んでないかのうちに、店の棚に並べたりする。並べたそばから売れる。お客さんが帰ったあとに惜しい気持ちが押し寄せる。結局、もう一冊買うことに。阿呆だと思う。

 父親から電話。いわゆる終活の一環なのか、家の片づけ中に雑誌が大量にでたという。

「サライのバックナンバーとかいらん?」
「店に置いてもあんまり売れんけぇ、ええわ」

愛想ない返事になってしまう。父の棚にある本は熟知しているつもりだ。雑誌よりも、あの棚に並ぶ本を売りに来て欲しい。

「親父が死んだら、家にある本はわしがぜんぶ面倒みるけぇ安心しいや」
いつもの軽口を言って電話を切る。

 買取値段を伝えるとお客さんが悩みだした。安くつけすぎたかと「もう少しくらいなら頑張りますけど」と言うと「いや、値段ではなくて...どうせもう読まないと思うんですけど...もう一度チャレンジしてみようかどうしようかなって」。彼がもってきた本は専門書ばかり。定価は高く、古本屋的にも嬉しい本だが、気軽に散歩途中に読むというより、机にかじりついて挑む本という感じだろう。じゃあ、煙草一本吸ってくるのでゆっくり考えてください。呑気にかっこつけて表に出たが、内心はそわそわしている。店に帰ると、「じゃあこれだけお願いします」と本命を手元に残して、二冊の買取。そのほうがたぶんいいだろう。手元から離れた本が帰ってくることは少ない。

 太宰の文庫が買い取ったその日にすぐ売れてゆく。仕入れた漫画セットをSNSで紹介すると、お客さんが夜な夜な買いにやってくる。『まんが道』全巻セットが、『チェンソーマン』全巻セットが。定番の本や人気の漫画は動きが早い。ずいぶん前に買い取った全集の類は棚の上から僕を見下ろす。「いつになったら売れるのか」と聞いてくるようで恐ろしく、目をそらす。「買ってくれる人はきっといます、必ずいます」と自分の商才の無さも棚にあげておく。

 開店当初はほんとうに本が少なかった。苦し紛れに面陳をしていたが、お世辞にも古本屋とは言えない顔立ちだった。季節をまたぐたび、本の色は変わった。知らぬうちに林ぐらいには生い茂ってきた気がする。林よりもきのこのほうが感覚としては近いかもしれない。いい菌(本)を仕入れてきては、棚に置く。菌は菌を呼び、いつのまにかぼこぼこと繁殖した。ナリの良い本が売れれば嬉しいが、どこか惜しい。どうせなら、ぜんぶ鍋にして自分ひとりで食べてしまいたい。それができずに心に黴を生やしている。