盛林堂書房 2/2

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1月18日(土曜)

 あまりの寒さに目を覚ます。テレビをつけると、関東甲信の山沿いでは雪が降り始めており、都心でも雪やみぞれになると報じられている。続けて、今日と明日は「最後のセンター試験」だとアナウンサーが語る。

 今日も中央線の下りに揺られる。土曜日の中央線は西荻窪に停まらないので、中野で総武線に乗り換えた。向かいには制服姿の子が座っていて、赤いマーカーを引いたプリントに緑の下敷きを重ね、何かを暗記している。

 昨日より30分早く、10時ぴったりに店の裏口――そこは小野家の玄関でもある――に向かった。出迎えてくれた小野さんが「みぞれだね。嫌だねえ」と言う。息が白くなる。小野さんはネットで雨雲レーダーを確認し、「夕方まで降りそうだね」とため息混じりだ。

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 今日は20分早くシャッターを上げた。みぞれは雪に変わっていて、「もう笑うしかないね」と小野さんのお母さんが言う。雪を見上げていると、「うわ、最悪だ」と小野さんが声をあげた。店のすぐ近くに、吐瀉物の跡があったのだ。ホースを持ってきて、水とほうきで洗い流す。「飲むなとは言わんけど、もったいないから吐くまで飲むなよな」。嘆きに酒飲みらしさが宿る。年末年始になると、誰かが吐いた跡が残っていることがままあるという。

 小野さんが掃除をする様子を、お客さんが見守っている。シャッターを上げた頃にはもう、向かいの軒先にお客さんが待ち構えていた。土曜日は、「盛林堂書房」の均一棚がまるごと入れ替わる日だ。それを知る常連客は、掘り出し物を求めて早くからやってくるのだ。

 本が濡れないようにビニールカーテンを広げ、いつもよりコンパクトに均一棚を配置する。そこに新ネタの均一本を並べ終えたのは10時28分だ。小野さんが「お待たせしました、どうぞご覧になってください」と告げると、待ち構えていたお客さんがワッと詰め掛け、棚の前は人で埋まった。お客さんは次から次へと本を手に取ってゆく。7分ほど経つと、本を抱えたお客さんが帳場にやってくる。「橋本さん、本をカウントして、大きい袋に入れちゃってください」。小野さんから言われて、あわあわと本を数える。最初のお客さんは13冊。次のお客さんは10冊。どのお客さんも大量に買ってゆく。僕が圧倒されていると、「晴れた日だったら、皆さんもっと買ってくれますよ」と小野さんが教えてくれた。「もっと時間をかけて外の棚を見る方もいますけど、今日は寒いですからね。自分が買う側だと考えても、雨の日に本をたくさん持って帰りたくないですもんね」と。

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 オープンから50分経ったところで、お客さんが一旦途切れた。開けっぱなしにしていた入り口の自動ドアのスイッチを入れて、扉を閉める。「早かったね、今日は」と小野さんが漏らす。ただ、土曜日とあって、お客さんがぽつぽつやってくる。常連のお客さんも多く、買い物のついでに小野さんと談笑していく。

「さっき神保町に行ってきましたけど、今日は並ばずに『丸香』に入れましたよ」とお客さん。

「今日この天気で並ぶようなら、よっぽどですよ」と小野さんが笑う。

「小野さん、『丸香』の先に『仙臺』ってカレー屋さんがあるの知ってる? ちゃんとした洋食系のカレー屋さんで、ポークが500円、牛たんカレーが800円だったかな」

「安いですね。今度チャレンジしてみます」

 お客さんが帰ったあとで、「今のはミステリ評論家の森英俊さん」と小野さんが教えてくれた。本に関する話はもちろん、飲食店に関する情報も交わしている。そう言えば昨日も、神保町から都営新宿線に乗るまえ、小野さんはジビエ料理の店の前で足を止めてメニューをじっくり確認していた。小野さんにとって、日々の楽しみはおいしい料理とお酒、それに映画だ。

「ネットで席が予約できると知って、ここ2、3年は映画を観に行くようになったんです。普通に洋画も観ますけど、劇場でやっているアニメはできるだけ観るようにしてますね。去年は年間99本観ました。そうやって言うと多く聞こえますけど、週に2本観れば年間100本ですからね。起きれないとまずいから、さすがに催事の前は自粛しますけど、観たいのがあるときは仕事帰りに映画館に行きますよ」

 今日はいつもより店を早く開ける日だったけれど、それでも昨晩は映画を観に行ったのだという。「昨日が封切りだったし、行けるときに行っておかないと、観れなくなっちゃうから」。小野さんはこともなげに言う。

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 さて、仕事だ。

 今日は文庫本のクリーニングを教わる。まず、カバーに貼られた他店の値札シールを剥がす。べりっと剥がせば本が痛むので、ベンジンを染み込ませて、ペーパーナイフで削ぐ。うまく削げずにいると、「ベンジンは揮発するから、たっぷりかけても大丈夫」と小野さんがアドバイスしてくれる。きれいに剥がすと、ダスターで拭き、表紙にパラフィン紙を巻く。

「最近は店内に並べる本にOPPシートを巻きますけど、催事に使う本はパラフィン紙を巻くことが多いんです。特に屋外の催事だと、砂埃で本がざらざらになっちゃうから。あくまで商品保護のためで、これで値段が上下するものではないので、完璧を求めなくて全然いいんですけど、カバーが折れないようにゆっくり巻いてあげてください」

 小野さんのパラフィン紙の巻き方は、すべて我流だという。

「盛林堂書房」を創業したのは、祖父・小野源三郎さんだ。建物の二階と三階が住居になっていることもあり、小野さんは物心ついたときから店の中で育ってきた。源三郎さんは頑固だったが、孫には優しかった。小野さんは小さい頃から店が遊び場で、祖父から本の縛り方を教わったり、どうやったら箱にたくさん本を詰められるかとゲーム感覚で教わったりした。ただ、本はあくまで商品であり、読むものではなかった。祖父は店を誰かに継がせる気もなく、小野さんも自分が古本屋になることを想像していなかった。だが、2004年に祖父が急逝。残された店をどうするか――家族から「潰してもいい」と言われ、じゃあやるかと引き継いだのは23歳のときだ。

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「ちゃんと古本屋をやってみるかという気になったときに、買い取りに出かけたついでに古本屋さんにも入って、あえてパラフィン紙を巻いてあるものを買って、どういうふうになっているのか確認したりしてました。いろんなお店のやり方を見て、『自分はこれが一番やりやすい』っていう方法を探って、今のやりかたに行き着いたんです」

 祖父が営む「盛林堂書房」は、主に山岳書を扱う店だった。引き継いだ当初は、祖父の時代の棚のまま経営していた。外でアルバイトをしながら、ただ帳場に座って過ごす日々だった。そうして3年が経ち、本腰を入れて古本屋になろうと決めたとき、惹かれたのがミステリだった。

「最初に惹かれたのは、まさに今パラフィン紙を巻いてもらっている文庫です」と小野さんが言う。手元には角川文庫の横溝正史本がずらりと並んでいる。「その当時、横溝の角川文庫がよく入ってきたんですけど、この表紙にやられたんです。杉本一文の描く、気持ち悪いんだけど格好良い表紙。そこで『カバーを全部集めたら面白そうだな』と思って、少しずつ棚がミステリに寄っていくようになりました。普通はワンタイトル1冊しか扱わないけど、『これは同じ本だけど、カバーが違うから』と2冊並べたりして。その頃に、さっきの森英俊さんがたまたまいらっしゃったんです。ちょうど森さんがカバーを全部集めてる時期で、『これ、他にもありませんか』『まだ整理してないんですけど、たぶんあると思うので、来週来てもらったら並べられるようにしておきます』ってところから、毎週通ってくださって。疑問に思ったことがあると森さんが全部教えてくれて、そのうちに知識がついて、市場でも本が買えるようになったんです」

 ゼロからのスタートだったが、お客さんに教えられながら、今の「盛林堂書房」が形作られた。ミステリやSF小説が好きなお客さんは、質問すれば喜んで教えてくれた。ここ最近では、とりわけ大きかったのは、SF作家・横田順彌さんとの出会いだ。

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「横田さんと知り合ったのは、日本古典SF研究会だったんです。そこは押川春浪や黒岩涙香、海野十三といった、明治から戦前までの古典SFを研究する会なんですけど、北原尚彦さんに誘われてお伺いして、横田さんと初めてお会いしたんです。何回もお会いしているうちに『本を整理して欲しい』と頼まれて、横田さんのおうちで本を少しずつ整理して、そうするとまたお店にきて本を買ってくれて。番台の隣に椅子を出して、こんな感じでおしゃべりをして、本を観てもらって教えてもらって――それを繰り返してましたね」

 横田さんはSF作家であり、古典SF研究家であり、明治文化の研究家でもあった。大河ドラマ『いだてん』に登場した「天狗倶楽部」について唯一まとまった研究を残したのも横田さんである。振り返ってみれば3、4年という短い期間ではあったが、何かあれば「盛林堂書房」に電話がかかってきて、密な付き合いがあった。横田さんが昨年1月に亡くなったときには、さすがにショックが大きかった。小野さんは蔵書の整理も引き受け、東京古書会館で「横田順彌追悼展」も開催した。慌ただしかった一年を振り返り、「そっか、もう一年経つんだ」と小野さんがつぶやいた。

 外ではまだ雪が降り続いている。夕方になっても客足が伸びる気配はなく、「今日は駄目だ」と小野さんは笑う。

「盛林堂書房」の営業時間は11時から18時半までだ。先代が切り盛りしていた頃は、23時半頃まで店を開けていたこともある。当時は向かいに銭湯があり、銭湯帰りのお客さんが立ち寄っていたからだという。先代が高齢になってからも20時までは営業していたが、小野さんが引き継いでから営業時間を短くした。

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「最初は20時まで開けてたんだけど、19時を過ぎると、店の前を人がまったく通らなくなるんですよ。昔はうちの前の通りがメインだったけど、今は裏の道を通る人が多くなって。人間って同じ道を通るから、よほどのことがなければ違う道を歩かないんですよね。どっちにしても閉店後は店内で作業をしてるから、その時間も営業を続けててもいいのかもしれないけど、営業時間を伸ばしたからといってそんなに売り上げに繋がるわけじゃないからね。それだったら店を閉めて、自分のペースで作業をして、映画でも観に行く。それが許されるのは、ここが持ち家だからだと思います。もし物件を借りてたらもうちょっと無理しなきゃいけないかもしれないけど、これで生活できて、好きなことやれてるから、無理しなくていいところは無理しなくていいやと思ってるところはありますね」

 18時を過ぎたところで、小野さんは早上がりする。今日は商店会の新年会があるのだ。年に数回しか着ないスーツに着替え、ネクタイを締め、夜の町に消えてゆく。

1月19日

 嘘みたいに快晴だ。昨日のぶんまで出かけようと思う人が多いのか、電車は昨日より混んでいた。少し早めに西荻窪に到着して、散策する。「盛林堂書房」に向かう途中、神明通りを左に曲がると、道路が歩行者天国に市が立っていた。昭和50年から続く「あさ市」で、毎月第三日曜日に開催されているそうだ。近所のお店が出しているのだろう、エスニック料理や中華料理の屋台が並んでいる。惣菜屋さんにコーヒー屋さん、植木屋さんに雑貨屋さんなど、しばらく市が続いており、かなりの賑わいだ。酒屋さんの前では甘酒が無料で振る舞われていて、列ができている。視線を上にやると、街頭のところに「西荻東銀座会」と書かれていた。

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「西荻窪って町には、商店会が20個以上あるんです」。開店作業をしながら、小野さんが教えてくれた。「神明通りも途中で分かれていて、あさ市をやっているところは西荻東銀座会で、そこから先は神明通り共和会になるんです。うちは西荻南中央通銀盛会なんですけど、神明通りの信号のところから銀盛会館あたりまでで、そこから先はまた別の商店会なんですよね」

 外から訪れる側からすると、ひとつの「西荻窪」という町に見えるけれど、そこには紆余曲折があり、境界線がある。

「昔はお金を積み立てて、銀盛会でバス旅行に行ってたんですよ。最近はご年配の方が増えちゃって、自然となくなったんですけど、朝7時に出発して修禅寺まで出かけて、皆で食事をして帰ってくる。僕が小さい頃はまだ、そういう一日旅行をやっていたんです。お祭り一つとっても、昔はもっと盛大にやってたんです。うちの先代も祭りが好きだったから、神酒所から帰ってこないんですよ。用事があると『呼んできて』と言われて、僕が神酒所まで呼びに行くんですけど、そうすると近所の人に『おお、入れ入れ』と言われて、ジュースとお菓子をもらって、梨を剥いてもらって皆で食べて――今はマンションが増えちゃったから、顔がわからない人が多いですけど、昔はそういう風景が当たり前だったんです」

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 先代の源三郎さんは大正10年、栃木県に生まれた。就職のあてがなく、叔母に相談したところ、「じゃあ、うちにくる?」と誘われ、「高野書店」で丁稚奉公することになる。叔母が結婚した相手というのが、「高野書店」の店主だったのだ。当時は物がない時代だったこともあり、お金の代わりにじゃがいもを持参して、「これからよろしくお願いします」と働き始めたそうだ。

「そこで何年か修行して、昭和24年の秋に『盛林堂書房』を創業したみたいです。最初は西荻窪じゃなくて吉祥寺で、闇市時代の『いせや』さんの向かいで、1年半ぐらいやってたそうです。それで、この場所には昔『青樹社』という古本屋さんがあって、柳田國男が通った民族学系の古本屋さんだったらしいんですけど、そのお店から『引っ越すから、居抜きで買わないか』と言われて、ここに引っ越してきたんです。だから、独立して1年半でここを買うだけの資金が貯まるぐらいに本が売れたんでしょうね。当時はまだ物がない時代ですからね」

 当時は余った部屋を下宿として貸し出していて、買い取りなど人手が必要なときにはアルバイトとして手伝ってもらっていたという。下宿代には、向かいにあった銭湯に入る代金も含まれており、下宿する学生が顔を見せれば「ああ、入っていきな」と入浴できたそうだ。

「今日は落ち着いてるし、やってもらえる仕事もないから、ゆっくりお昼休みをとってきてください」。そう送り出されて、「盛林堂書房」を出る。向かいにあった銭湯はとっくに姿を消している。さっきまで聞いていた話と、目の前にある風景との差にくらくらする。お昼時だからか、駅前のマクドナルドにはウーバーイーツの配達員が3人ほど待機していた。

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 今日は駅前の柳小路で「昼市」が開催されているというので、足を運んでみる。闇市の面影を残す小道には、世界各地の料理を提供するお店がひしめき合っている。「昼市」では、各店舗が軒先に椅子やテーブルを並べ、昼間からお酒が飲めるようになっている。僕はバングラデシュ料理のお店でバーベキューチキンとヒヨコ豆のスパイス炒めを注文する。面のテーブル席に座り、煙に燻されながら平らげる。バングラデシュの向かいにはギリシャがある。ワインでも飲みたいところだけど、「うちのお店でお酒を飲んでいいのはお祭りの日だけです」と小野さんに釘を刺されたことを思い出し、ノンアルコールビールで我慢する。

 1時間ほどで「盛林堂書房」に引き返す。午後は通販の発送作業のお手伝いをする。通販と経理はスタッフのふみさんの仕事だが、今日はふみさんがコンサートを観に行く予定があり、早上がりするという。

 小野さんがふみさんと一緒に、夫婦で店を切り盛りするようになって6年が経つ。結婚してからも、しばらくは小野さんがひとりで古本屋をやっていたけれど、「給料は払うから、手伝わない?」と相談して、一緒に店をやるようになった。夫婦ではあるけれど、仕事は仕事と切り替えて、ふみさんはあくまでスタッフという立ち位置で仕事をしている。小野さんは番台に座り、ふみさんは奥の部屋に机を置いて、そこで経理や通販の業務を行なっている。

 この部屋にはかつて、大きなテーブルが置かれていた。そこは作業場であり、食卓だった。先代の源三郎さんが切り盛りしていた頃から、催事があるときには家族総出で仕事を手伝っていたという。料理を作る余裕もなく、同じ商店会のお店から出前を取り、食事をする機会も多かった。「だから、お昼は店屋物をとるのが当たり前だと思ってましたよ」と小野さんは笑う。

 気づけば今日も夕方だ。「ちょっとコーヒーでも買ってきてください」とお金を預かって、近くの「ドトール」に出かけ、カフェラテを2杯買ってくる。「盛林堂書房」からは、徒歩数分の距離にいろんなお店が揃っている。それが当たり前だと思っていたと、小野さんは語る。それが当たり前ではなかったのだと気づいたのは、結婚して西荻窪を出てからだ。

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「この家にはふたりで暮らせるスペースがなかったってこともありますけど、一回西荻から出てみたかったんです」。カフェラテを飲みながら、小野さんが話してくれた。「生まれたのも西荻で、ずっとここで生きてきたから、違う町に住んでみたかったんです。今は店まで片道30分くらいのところに住んでますけど、住宅街のど真ん中で、夜は静かだし、人があんまり歩いてないし、全然違うんですよね。それで客観的に町を見られるようになったし、外から見るってことを意識したかもしれないです。それまでは視点が一箇所で、これが普通だと思ってましたけど、ここがいかに恵まれた場所か、よくわかるようになりました」

 23歳で古本屋を継いだ小野さんも、今年で39歳を迎える。先輩たちからは「まだ若いのに、何言ってんんだ」と言われるけれど、体力の衰えを実感しているという。昔であれば、3万冊ぐらいの買い取りをひとりで何往復もしてこなしたこともあったけど、今はそんな体力がなくなっている。エスカレーターには乗らず、階段を歩くようにしているのも、そんな理由からだ。

「他の仕事をしたことがないから、古本屋で食っていくしかないよなと思うんです。あと30年経って、70歳ぐらいになっても今と同じような感じで商売できてたら幸せだなと思います。この物件がどうなるかわからないけれど、負債を抱えているわけじゃないから、これが続いてくれればいいと思うんですけどね。あとはもう、時局かな。紙の本を誰も触らない時代がやってくるかもしれないし、逆に骨董品扱いになって、1冊1万円以上の値段がつく時代がやってくるかもしれなくて。でも、ポイントになると思っているのは今年なんです」

 今年がポイントだと思う理由は、オリンピックが開催されるからだ。小野さんはオリンピック反対派で、お店の名前で反対運動に署名したほどだ。小野さんは学生時代に陸上部で、国立競技場で走ることを目標に過ごしていた。あこがれの国立競技場が壊された――そんな個人的な理由もあるけれど、何より大きいのは、オリンピックのあとには必ず不景気に見舞われるからだ。

「東京オリンピックが終わったあと、絶対に何かしらの変化が出てくるはずなんです。その変化にどう対応するかってことも大事なんですけど、変わったことを敏感に察知できるようにしておかないといけないなと思ってます。そうしないと、微妙な変化に気づかなくて、いつのまにか『何でこんなことになってるの?』という状態になっている可能性がある。そこで慌てなくて済むように、ちょっとした変化を見落とさないようにしなきゃいけない一年になるだろうなと思ってます」

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 18時半になると、小野さんのお母さんが三階から降りてきて、閉店作業を済ませる。三日間、お世話になりました。お礼を言って、「盛林堂書房」をあとにする。そして今日もまた、駅前の「戎」という酒場に入る。一昨日も、昨日も、仕事終わりは「戎」で酒を飲んだ。

 熱燗をすすりながら、小野さんが話してくれたことを思い出す。小野さんが小さかった頃は、このあたりにはまだ闇市の頃の面影が強く残っており、通りかかる機会は少なかったという。その時代を知らない僕は、こうして毎日のように熱燗を啜っている。

 西荻窪駅の南口には、再開発の話が持ち上がっている。駅前だけでなく、青梅街道から「盛林堂書房」のある銀盛会へと続く道路は、東京都が拡幅工事を計画している。これから先、この町はどう変わってゆくのだろう。想像しようとしてみたけれど、すでに酔いがまわり始めているのか、うまくイメージを結ぶことはできなかった。小野さんの言葉を思い返す。そこに生じる微妙な変化を、できうることなら、見逃さずにいたいと思う。