丸三文庫 1/2

 高田馬場駅のロータリーから、しばらく東に歩いてゆくと、明治通りに出る。これを越えたあたりから、古本屋が軒を連ねている。早稲田の古本屋街だ。この地で何十年と営業を続けてきた老舗の中に、比較的若いお店がある。2010年春に創業した「丸三文庫」である。創業当初は早稲田古本屋街の中腹あたり、「三楽書房」の2階で営業していたが、2019年5月、そこから東へ5分ほど歩いた場所に移転した。

 店主の藤原健功さんは1981年生まれ。「古書往来座」の回に登場した"豆ちゃん"に店番を手伝ってもらっていた時期もあるけれど、基本的にはひとりで店を切り盛りしてきた。ただ、最近は「古書信天翁」の山﨑哲さんが週に3日だけ店番を手伝っている。藤原さんは山﨑さんのことを「先輩」と呼ぶので、それに倣って先輩と記すことにする。

2月17日(月)

 早稲田駅で東西線を降りると、「早稲田試験場」と書かれた貼り紙があった。今日は早稲田大学で入学試験が行われているらしかった。階段を上がってゆくと、同じく「早稲田試験場」と書かれた看板を持った学生アルバイトが、地下鉄の出口で寒そうに佇んでいる。

1.jpeg

2.jpeg

 19年前を思い出す。

 受験の日、僕は遅くとも7時までにはこの階段を上がったはずだ。東京に不慣れなこともあり、通勤ラッシュが恐ろしく、早朝のうちに早稲田までやってきたのだ。朝マックを頬張りながら参考書を広げ、「こんなに早くやってきたのだから、きっと合格するだろう」と満足した記憶がある。試験を終えた帰り道、地下鉄にもバスにも乗らず、高田馬場駅まで歩いた。東京の夜はこんなに明るいのかと驚いたことを鮮明におぼえている。試験には受からなかったけれど、そこで見たひかりに惹かれるように上京したのだった。

 あの日のことを思い出しながら、マクドナルドを覗く。もう10時半を過ぎており、朝マックは販売を終了していた。マクドナルドを通り過ぎて、ドトールでミラノサンドBを注文。レジの横に「当店では新型コロナウィルス・インフルエンザ対策としてマスクを着用しているスタッフがおります」と書かれた貼り紙を見かけた。

 穴八幡宮を左手に見ながら坂を上がり、「丸三文庫」にたどり着く。11時きっかりに、先輩が店を開ける。外に並べる圴一棚を、あっという間に並べ終える。「藤原さんは『量が多くてすみません』って言うんだけど、昔を思うと、開店作業が楽なんです」と先輩は言う。先輩の「古書信天翁」はビルの2階にあって、外に置く均一棚を開店と閉店のたびに運んでいたのだ。「やっぱり、路面じゃなきゃ駄目ですよ」と先輩が笑う。

3.jpeg

4.jpeg

 店を開けると、次はネット出品に向けた準備だ。書名や本の状態をエクセルに入力し、汚れがあれば拭き取ってゆく。手元にあるのはファブリーズだ。「藤原さんは無水エタノールとジフを使ってますけど、私が店番するときは『古書信天翁』仕様で、ファブリーズを持ってきてるんです。それぞれ古本屋ごとに使う道具があるんだと思いますけど、ファブリーズはほんと汚れが落ちるし、除菌だからいいんじゃないかと思って使ってますね」

 若者が「買取お願いします」とやってくる。紙袋から取り出したのは、思想や哲学、心理学など硬めの本ばかりだ。そのラインナップを眺めていると、なんだかまぶしく思えてくる。まだ大学生だった頃に、教養を身につけようと本を買っていた頃を思い出す。そんな時代は過ぎ去ってしまった。今では硬めの本を見かけても、「買っても読まないだろう」と気づかなかったふりをしている。

 番台にあるパソコンでは、ザ・バンドのアルバム『ラスト・ワルツ』がリピートされている。ちょうど1曲目の「Theme From The Last Waltz」に戻って再生され始めたところだ。そのリズムに合わせるように、お年寄りがゆっくり通り過ぎてゆく。

 この日、ネットに出品されていたのはクイズやパズルの本だ。番台に積まれた山の中に、多田弘幸『宴会かくし芸』という本を見つけた。奥付を確認すると「21版」とあり、それは昭和57年、僕が生まれた年に重版されたものだ。目次には「奇術」や「民謡」、「都々逸」、「浪曲」、「物売り口上」といった文字が並ぶ。「舞台名ゼリフ」のページには、勧進帳や仮名手本忠臣蔵の台詞が書き連ねられている。宴会芸と呼ぶにはずいぶんしっかりしている。

5.jpeg

「昔は会社の慰安旅行があって、バスで観光旅館に乗りつけて、宴会やってたんでしょうね」と先輩が言う。「親父の遺品を整理をしていたとき、慰安旅行で宴会をやってる写真が出てきたんですよ。すごく印象的でしたね。ドジョウ掬いか何かやっている写真だったんですけど、家にはそういう芸をまったく持って帰らなかったから」

 掲載されている宴会芸には「軍歌」という項目もあった。昭和57年ということは戦後37年を迎える頃だ。昭和5年に生まれた世代であれば、軍国主義教育を受けたはずだ。その世代が、昭和57年にはまだ現役だったのだ。

 昨今の宴会だと、一芸を披露するとしても、ヒット曲のダンスやお笑い芸人の真似くらいのものだろう。そこでは本は必要とされず、YouTubeで事足りてしまう。

 番台に積み上げられた本を眺めているうちに、幼い日の記憶がよみがえる。父は出張が多く、僕を連れて新幹線や飛行機で出かける機会も多かった。そういうときは決まって漫画を買ってもらっていた。多かったのは4コマ漫画で、一番好きなのは『かりあげクン』だった。僕も大人になればサラリーマンになり、こんな世界で過ごすことになるのだろうと思っていたが、どういうわけだか無縁のままだ。

「慰安旅行の宴会って、一度も見ることなく、僕は人生を終えますねえ」。先輩がしみじみ言う。パソコンからはボブ・ディランの声とともに「アイ・シャル・ビー・リリースト」が聴こえてくる。曲に合わせて、先輩は足でリズムを刻んでいる。

6.jpeg

 15時、市場に出かけていた藤原さんが帰ってくる。先輩と入れ替わるように番台に座り、通販で注文が入った商品の発送に取りかかる。藤原さんが取り出したのは本ではなく、鉄道写真を収めたアルバムだ。

「今から2年くらい前に、ひとりのコレクターが撮り続けた鉄道写真を市場で落札したんです。それを1枚ずつヤフオクに出品して、ずっと売ってます。市場に出たとき、どさっと安く買って、めちゃくちゃ儲かったことがあるんですよ。それから鉄道写真が出るたびに買い続けてたら、他の古本屋さんにバレて、最近は他の人もやるようになっちゃいましたけど。これで儲けて、そのお金で本を買って損してます」

 帳場にはアルバムが几帳面に整理されている。落札された写真を取り出すと、折り曲がらないようにと折り紙を添えて、ビニール袋で梱包する。クリックポストのラベルを印刷し、中身と照らし合わせて封筒に入れてゆく。

 鉄道写真を出品しているからといって、藤原さんは鉄道が好きなわけではない。安く仕入れることができて、それなりの値段で落札してくれる人がいるから、鉄道写真を扱っているのだ。

7.jpeg

 少し前には、市場で『競馬週報』を落札してみたこともある。1972年まで発行されていた競馬専門誌だ。競馬に詳しい先輩は、ひと目見て「藤原さん、これ駄目ですよ」と告げた。『競馬週報』に掲載されているのは地方競馬の情報で、これは売り物にならないと思ったのだ。競馬に詳しい人だと「値がつかない」と判断するものを、藤原さんは仕入れてきて、ネットに出品する。蓋を開けてみれば、『競馬週報』は仕入れ値の30倍近い金額に化けた。

「完全にギャンブルですよね」と藤原さんは笑う。「成功したぶんの何倍も失敗してます。パチンコと同じで、いっぱいお金を使ってるから、たまに当たりを引くんですよね。だから何でも買ってみないと駄目なんです。でも、そう思って本を買ってみると、全然売れなかったりするんですけどね」

 改めて、「丸三文庫」の棚を眺めてみる。棚の大半を占めるのは人文書や学術書で、ネットで販売する商品との差に驚かされる。

8.jpeg

9.jpeg

「古本徳を積むためには、ちゃんとした硬い本も買っておかないと、チャンスが回ってこないような気がするんですよ」。不思議そうに棚を眺めていると、藤原さんがそう教えてくれた。「変なのばっか買ってたら、古本の神様が当たりをまわしてくれない気がします。だから、今日も市場でいっぱい人文書を買いました」

 今日は月曜日で、市場では中央市会が開催される日だ。ただし、今日は通常の市ではなく、年に一度の「大市」の日だ。

 今日の落札結果をネットで確認していた藤原さんが、「あらららら」と声をあげる。藤原さんが落札した総額は、さっきまで25万と表示されていたのに、開札が進むにつれて33万にまで膨らんでいた。「35、40、43、51――51本も落札しちゃったんだ。あららら。支払いが厳しいな、これは。でも、『世界の名著』が落札できたのは嬉しいな。最近の学生は勉強しないとか言われるけど、やっぱ早稲田だと、しっかりした本を買う人が多いですよね」

10.jpeg

 気づけば日が傾いている。店の外を、試験を終えた受験生が通り過ぎてゆく。日が暮れた頃になって、「谷書房」の谷さんがやってくる。現在「丸三文庫」がある場所には、2017年の終わりまで「谷書房」があった。1967年に独立して、半世紀にわたり、この場所で古本屋を営んできたのだ。物件が「丸三文庫」に引き継がれてからも、谷さんはたまに店番を手伝ってくれているのだという。

 文庫の棚を眺めていた谷さんが、「もうちょっと片付けなきゃ。今度仕分けしてあげるよ」と話していたところに、藤原さんのケータイが鳴る。息子さんからだ。藤原さんはビデオ通話の画面を店内に向け、「ほら、谷さんだよ。『こんにちは』は?」に語りかける。画面の向こうで、藤原さんの長男は「こんにちは」と挨拶する。

「パパ、今日遅くなる?」

「ううん、そんなに遅くならないと思う。じゃあね」

 発送作業をしているうちに、17時半を過ぎている。藤原さんは慌ただしく片づけを済ませ、こどもを迎えに帰ってゆく。

丸三文庫 2月18日(火曜)、19日(水曜)へつづく >>