第12回 現存最古のサーバーで注がれる、伝説の生ビール。(前編)

「立った、立った、マッチ棒が立った!」

 無邪気に驚嘆の声をあげているあたしに、

「でしょう。このもっちりとした泡が美味しさの肝なんですよ」

 そう冷静にビールのイロハを教えてくださったのが、新橋「ビアライゼ'98」の松尾光平さんだ。言わずと知れたビール注ぎの名人。

「灘コロンビアって行ったことある? あそこのビール、美味しかったんだよねぇ」

 雑誌『古典酒場』の取材で、いろんな酒場で多くの酒呑み先輩たちと交流させていただく中で、幾度もその店の名前が登場した。

 ぜひにお邪魔してみたい、灘コロンビアのビールを呑んでみたいと思うものの、その店はすでに存在していなかった。もう少し早く生まれていれば。ほぞを噛みまくっていたら、そこで修業を積んだ方が、灘コロンビアのビールサーバーを引きついで独立されているということを知った。それが「ビアライゼ'98」だ。

 小躍りで足を運んだ。

 平成212009)年のことだ。

 早い時間にひとりブラリと現れた、どうみても一見の客にもかかわらず、松尾さんのサーバーの目の前という特等席に座らせて下さった。

 そして目の前で繰り広げられる松尾劇場。泡を丁寧に掬い出しながら2度注ぎされる、流麗な手技。カウンター越しに手渡される、注がれたばかりの美しき生ビール。グラスの縁からとろりと流れ落ちる泡もシルキーで、柔らかさが目からも伝わってくる。

泡を丁寧に掬い出しながら2度注ぎをされる松尾さん
カウンター越しに手渡される

 見惚れながら口もとに持っていくと、スゥ~っと滑らかに胃袋に流れ込んでいった。これには驚いた。

 これまでの経験上、ビールはぐび~っという擬音語があたしにとってはピッタリくるものだったのだが、松尾さんが注ぐビールは、実にスムースにスゥ~っと吸い込まれていくのだ。

 この瞬間、あたしの中でビールに対する概念が変わった。

「とりあえずビール!」ではなく、ちゃんと「ビール」。そして「何杯でもビール!」になったのだ。

 一見の人間に対しても、丁寧にビールの美味しさについて教えてくださる松尾さん。独占的に会話をさせていただきながら、マルエフ、隅田川ヴァイツェンなどを呑み継いだ。

 それからしばらくのち、『古典酒場』の取材でお世話になった時に、

「泡にマッチ棒を立ててごらんなさい。ちゃんと立つから」

 松尾さんがそうおしゃってくださり、実際に試した時の驚きが、冒頭の出来事だ。

  

 伝説的ビアホール「灘コロンビア」に松尾さんが入ったのは、昭和561981)年、16歳・高校1年生の時だ。バイクを買うためのお金が欲しくて始めたバイトだった。皿洗いなどをしながら高校3年間勤め上げ、大学に進学という時に、「うちに入らないか」と入社を勧めてくれたのが新井徳司さん。灘コロンビアの店主だ。

 戦後間も無くの昭和241949)年に開業した「灘コロンビア」。中国大陸からの復員兵だった新井さん、酒屋の息子だったこともあり、酒場を開業させた。それが「灘ホール」。こちらはさらに戦後間も無くの昭和2223年頃の開業だった。後の灘コロンビアにつながっていくお店なのだが、開業当時は、ビアホールではなく、酒場。東京の人に「白鷹」などの灘(兵庫)の美味しい日本酒を呑ませたいとオープンされたのだそう。

 新井さん29歳の時だった。

 新井さんは燗酒の名手で、燗銅壺で徳利をくるくると回しながら、実に柔らかく抜群にうまい燗酒を仕立てていたそう。

「酒屋の倅だったから、酒の知識も豊富だったんですよね。だからお客さん一人ずつに酒のことなんかも話しながら、燗酒を提供していたそうなんですよ。それが受けたらしくて、繁盛したみたいです」

 でもね、と松尾さんは続ける。

「終戦間も無くの頃、若干29歳の小僧がね、日本酒のことをぐずぐず言うな、生意気だって言われてもいたそうなんです。そういう時代だったんですね」

 しかし、新井さんがつける燗酒は間違いなく美味しいし、世間話をしながらの接客も塩梅が良くて、店はブレイクをする。その最中、ビールが飲食店でも出せるようになる。進駐軍がほぼ独占していたビールの統制が外れたのだ。昭和24年のことだ。その社会情勢を逸さずに即、ビールを店で取り扱い始めた新井さんは商売人としても突出していたと思うのだが、それ以上にすごいのが、探究心。いかに美味しい生ビールを提供できるか、そのことに心血を注いだ。まだ冷蔵庫も氷式の時代。家庭で生ビールなど望めない時だ。

 欧州帰りのお客さんが、当地で味わったビールの旨さを語って聞かせ、そして実際に目にしたビールの注ぎ方を、新井さんに伝えた。

 松尾さん曰く、

「日本酒は温める、ビールは冷やす。温冷の差はあれど、酒にひと手間かけるという意味でも通じるところがあったのでしょう」

 燗つけの旨さに定評のあった新井さん、試行錯誤を重ねながらも生ビールの注ぎ方も会得され、酒場に併設したビアホールも人気を博していく。そのビアホールが「灘コロンビア」だ。

「灘ホール」と同じ店舗内に2業態で入れ込みスタイル。店舗の大きさは、現在の「ビアライゼ'98」と同じく60坪ほどだったという。当時の酒場としてはなかなかの広さだと思う。繁盛のほどがそこからも伝わってくる。

 昭和301955)年頃には、ビヤホール ライオン銀座七丁目店の渋井栄二郎さん、神保町ランチョンの鈴木一郎さんと並んで東京のエースと称されるほどのビール注ぎの名手に。燗酒に続いて、ビール注ぎの名人になられたことで、店はさらにブレイクをしていく。

  

 新井さんは、生ビールの注ぎ方の研鑽を積まれたのみならず、そもそもビールとはどういう飲み物なのか、その成り立ちから勉強をされたのだとか。ビールの話をお願いされると、メソポタミア文明の時代にまで遡って、お話をされたのだそう。驚異的な深掘りだ。

 かといって、四角四面な方ではなく、語り口は実に軽妙。まさに噺家さんのようだったと松尾さんは言う。

「"教える"というのではなく、"伝える"という姿勢だったんです。努力家で勉強家で知識もすごかったけれど、そういったことを決して表に出す人ではなかったんです」

 そんな新井さんの人柄にも惹かれてさまざまな方が通われていたのだった。

 かくいう松尾さんもそのひとり。

「自分が出会った頃の新井さんは60歳くらいだったと思うのだけれども、心底惚れましたね。新井さんが自動車の整備の職人だったら、自分も今頃、自動車の整備の職人をやっていたと思います」

 16歳といえば多感な年頃。そんな時に、一意専心に探求を重ねる師匠に出会う。なんて素敵なことだろう。

  

 口開け16時。時間ぴったりにスーツ姿の男性ひとり客が来店。カウンターの一番手前の席に座る。と同時に、マルエフを注文。「ビアライゼ'98」の看板ビールだ。

 そのすぐ後に、ご隠居さんらしきジャケット姿2人連れの男性客が来店し、テーブル席の方に着席される。そしてやっぱりマルエフを注文。

 それまであたしの取材対応で忙しくされていた松尾さん。より一層キリッとした表情で、生ビールを注いでいかれる。しかしその手技は実に優雅。決して慌ただしくはない。けれども素早い。グラスの縁からクリーミーな泡が盛り溢れてくる様も麗しく、喉がごくりとなる。あたしもすかさず、マルエフを注文だ。

 そこへ若めの女性ひとり客が来店。あたしの左隣席に座られ、やっぱりマルエフをオーダー。

 兎にも角にも、ここでは一杯目にマルエフなのだ。

  

 あたしが、「マルエフ」というビールの存在を初めて知ったのも、ここ「ビアライゼ'98」だった。

 メニューには印の中にFと書かれ、まるで暗号のような名前。一体どんな正体のビールなのかもわからず、とりあえず呑んでみたら、前述したように、松尾さんの注ぎ方とも相まってあまりのクリーミーさに驚いたものだった。以来、ここに来ると、何はなくともマルエフ。「ビアライゼ'98」で呑むために存在しているビールとして私には認識されていった。

 そんな中、令和32021)年にマルエフの缶ビールが発売され、家呑みでも楽しめるようになった。でもやっぱり、松尾さんが注いでくれるマルエフは別次元。絹のような口当たりが秀逸なのだ。

  

「いかにストレスをかけずにビールを冷やすかが大事なんです」

 松尾さんが教えてくれる。

「たとえば、真夏に酒屋さんが運んできてくれたビールの樽は15度くらいになっている。それを5度でお客さんにお出しするのだけれども、一般的なサーバーでは急冷をかけてその温度にしている。うちでは、2日間くらいかけて冷蔵庫で落ち着かせ、さらに氷冷式のサーバーで穏やかに冷やして注ぐんです」

 サーバーの内側の螺旋状に巻いている管が氷で冷やされ、そこを通過している間にゆっくりとビールが冷やされるという構図。

「昔は、螺旋状に巻いている管は錫製で、コックの部分は真鍮だったんですよ。カランの先までちゃんと冷える、熱伝導率が抜群にいい設計だったんです。昔の職人さんはよく考えていらっしゃいましたよね」

 松尾さんが新井さんから受け継がれた氷冷式サーバーのことだ。現存する最古のサーバーでもある。

氷冷式サーバーで注いだもの(右)と、通常のサーバーで泡を付け足したもの(左)。それぞれの泡を揺らしながら違いを説明してくださる。付け足しの泡は酸味が立っていて、この一杯でtoo muchになるのだが、氷冷式サーバーでのもっちりとした泡は、スムースな呑み心地だった

 このサーバーで注がれたビールを呑みたいと足を運ぶ若人も多い。文化遺産級の道具で注がれたビール、それを愛でる楽しみを若人も知ってくれているというのも嬉しい。

 松尾さんが注ぐビールを愛しているのは、呑み手だけではない。

 昨今隆盛目覚ましきクラフトビールの作り手も、松尾さんにこそ我がビールを注いでもらいたいと店に訪れるという。

「作り手さんは、自分が育てたビールを信頼できる人に委ねたい、そう思っていらっしゃるんでしょう」と松尾さん。

 ドリンクというものは、"作り手"から"呑み手に提供する人"にバトンを渡されたところで、完成形となる。

「だからこそ、最終完成者として、サービングでちゃんとしたものを伝えたい。70年近く使われ続けてきたビアサーバーで注がれるビールの価値というものも合わせて、ね」。

 注ぎ手としても100名を超える後輩たちを育て上げてきた松尾さん。作り手の想いをいかに汲み取り、その想いに沿って提供できるか、その重要性も伝えている。(後編に続く)

松尾さんの後継者として、ビール注ぎの修業を積まれているスタッフさん
スタッフさんが注いでくれたマルエフ(435ml)