10月28日(月) 岩川隆をもう一度/その1

 岩川隆(1933~2001)という作家がいた。週刊誌記者を経てノンフィクション作家となり、BC級戦犯を扱った『神を信ぜず』、その続編の『孤島の土となるとも』(講談社ノンフィクション賞受賞)などの著作で知られるが、野球エッセイも人気を集め、いまでも覚えているのは『キミは長島を見たか』(1981年)。長島が立教大学の学生のころ、黒沢明の「野良犬」に後輩を誘ったとき、こう言ったという。「のよしいぬ」を見にいこう。言われた後輩は何のことかわからなかったが、「はい」と返事をしたというのだ。いい話だ。

 岩川隆は競馬も好きで、競馬の著作も多い。そのリストを掲げておく。

①『競馬人間学』1979年・立風書房/文春文庫
②『馬券人間学』1983年・立風書房/中公文庫
③『ニッポン競馬新探検』1985年・潮文庫
④『競馬ひとり旅』1988年・立風書房
⑤『ロングショットをもう一丁』1990年・マガジンハウス
⑥『広く天下の優駿を求む』1994年・プレジデント社
⑦『東京優駿大競走事始め』2003年・MYCOM競馬文庫(毎日コミュニケーションズ)

 私の調べたかぎり、競馬の著作はこの7作だが、これ以外にもあるのかどうか、調査は依然続行中。その大半は日本中央競馬会発行の「優駿」に掲載されたもので、⑥は馬事文化賞を受賞している。ちなみに、⑦はその⑥から2編を収録した再刊本なので、厳密には競馬の著作は6作ということになる。

 この6作の中で、ダントツに優れているのは、いちばん最初の著作である『競馬人間学』だ。立風書房から刊行されたのは1979年。カツラノハイセイコがダービーを勝った年である。年末の有馬記念をグリーングラスが勝った年でもある。そのグリーングラスの単勝は友人に頼んで買ってもらったが、私が競馬を休んでいた時期なので、他の競馬のディテールの記憶はない。しかし競馬に関する本を読むのは好きなので、実際の競馬は休んでいても気になる本が出ると必ず読んでいた。だからこの『競馬人間学』もすぐに読み、その内容の濃さにしびれた。今回久々に再読したが(なんと40年ぶりだ)、その面白さはいまでも変わらなかった。40年たっても面白いとはすごい。

 競馬の裏方さんたちの話である。中でも「馬追いのサイちゃん」を描く一編、「発馬オーライ 行ってらっしゃい」が素晴らしい。

「馬がかわいそうだよ、あんなハコの中に詰め込まれちゃってよ。コワイんだよ、馬は。自由を束縛されたようなもんだ」

 と、サイちゃんは言う。

 その人物紹介を、少し長くなるが引く。

「林斎次。七十一歳。千葉県市原の農家の次男に生まれ、伯父の林初太郎を頼って上京したのが昭和の始めであった。伯父はメハツ(目黒の初太郎)と呼ばれて明治・大正における競馬会と厩舎の〔顔役〕として功績のあった人物である。斎次ことサイちゃんは、背が低かったので徴兵検査も丙種合格でお呼びがかからない。目黒競馬場の雑役から始めて、昭和八年、府中競馬場が完成したのをきっかけに日給一円八十銭の臨時職員となった。その後、日本競馬会発足とともに正式職員(月給四十五円)となり、馬場係をつとめ、戦後は発馬(馬追い)を専門に扱う整馬係として働き、やがては〔馬追いのサイちゃん〕と異名をとるほどの名人になった」

 ようするに、バリアー式の発馬時代に活躍した名人である。バリアー式というのは、スタート地点にゴムのロープを左右に引き、馬が並んだところでロープを上にはねあげるというものだ。つまり、馬を横一線に並べなければならない。馬追いの技術が問われるさとになる。馬追いは1レースに3名。その細かな技術を、岩川隆にサイちゃんに取材するのだが、ここでは省略。

「あの頃は、乗り役もアジがあった。ファン、馬主、調教師、騎手、そして私も含めて、勝敗を決めるスタートにもっとも緊張し、迫力があったよ。馬が出遅れたためにファンが八百長だと騒ぎ始めて、理不尽に、騎手ともども五時間も控室に閉じ込められたこともある」

 おお、もっと書きたいが、長くなりすぎたので、続きは次回だ。