第3回 『失われた世界』に隠されたもう一つの"原点"

  • 失われた世界【新訳版】 (創元SF文庫)
  • 『失われた世界【新訳版】 (創元SF文庫)』
    アーサー・コナン・ドイル,中原 尚哉
    東京創元社
    968円(税込)
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 前回、コナン・ドイルの『失われた世界』の前半部分が迷走しているという話を書いた。なぜ不朽の名作が素直に探検で盛り上がれないのか。その謎を私がホームズばりに推理してみる。

 本書の前半部分、特にロンドンを舞台にしたパートは、当時のイギリスの雰囲気を濃厚に反映している気がする。この作品が発表されたのは1912年。大英帝国はほぼ世界を制覇し、あらゆる地域の品物が手に入り、世界中の人々がロンドンに集まっていた。第一次世界大戦が二年後に勃発するが、まだ差し迫った危機感はない。

 私は同時代のイギリス人作家でドイルの親しい友人でもあった、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』(原書は1889年刊行)を思い出した。この小説では、中産階級の紳士三人がストレスや「19世紀の喧噪」から解放されるべく休暇を取って川旅に出かける。その動機が21世紀の現在となんら変わらないうえ、彼らの持ち物の中に「日本製の紙の雨傘」がリストアップされていたのに驚かされたものだ。時代はすでにグローバルだったのだ。

 この時代状況はホームズシリーズを書くうえでは強力な武器になった。ホームズものは、事件の背景にアメリカ、オーストラリア、インドなど、海外の因縁が隠れていることが多く、それがトリックの意外性や犯人の多彩さにつながっていたし、子供時代の私もまるでホームズが世界中を舞台に活躍しているようなロマンを感じていた。でも、それはリアルな秘境冒険物語を描く上ではメリットではなかっただろう。

 実際にマローンの新聞社の上司はこんなことを言っている。「そもそも地図上に大きな空白地帯が皆無の現代において冒険譚が生まれる余地はないのだよ」。

 私が1980年代にムベンベ探査に出かけたときも同じようなことをさんざん言われたが、それより70年ぐらい前にすでに探検冒険の時代は終わったと認識されていたとは今さらに衝撃だ。

 要するに、当時のロンドンは科学者が「アマゾンの奥地に恐竜の生き残りがまだいるかもしれない!」「探しに行こう!」と無邪気に盛り上がるような時代ではなかったのだ。少なくとも科学を重視していた著者のドイルにはそう描くことには抵抗があったのだろう。だから、探検隊のメンバーに反対論者がいるとか、議論が絶えないなど、スッキリしない。一方で、生物学や地学、地理学などは思った以上に綿密に説明があり、とても理屈っぽい。著者がなんとか作品にリアリティをもたせようと苦心した跡が感じられる。

 これは子どもが読んで面白いと思わない。大人が読んでも微妙なんだから。

 そう思いながら読み進めていったのだが、探検隊がアマゾンの奥地にある「ロストワールド」を見つけてから俄然、面白くなった。ようやく物語が現実とすっぱり切り離されるからだ。なにしろ、イグアノドンやアロサウルス、翼竜が跋扈しているから、否定派の教授も負けを認めるしかなく、遅まきながら全員が団結して探検にのめりこむのだ。著者のドイルも吹っ切れた感がある。

 吹っ切れたあとは、さすがホームズの生みの親である。トリックや仕掛けが実にうまい。切り立った絶壁を前に諦めかけるも奇跡的によじ登る方法を見つけたり、大型の肉食恐竜に踏み潰されそうになったり、裏切り者が出たり、邪悪な敵が現れて絶体絶命のピンチに陥ったり、巨石が転がり落ちてきたり、毒ヘビの群れに取り囲まれたり、同じ邪悪な敵に苦しめられてきたマイノリティの先住民を救ったりと、エキサイティングなイベントが次から次へと発生する。スリルの中にちょっとしたユーモアも欠かさない。ラストも意外にして痛快。

 この世界観はどこかで見た憶えがある──としばらく考えていたのだが、終盤になり、やっと思い当たった。「インディ・ジョーンズじゃん!」

「ジュラシック・パーク」同様、スティーヴン・スピルバーグ監督が撮り、やはり大ヒットシリーズとなったあの映画インディ・ジョーンズである。

 インディ・ジョーンズの要素はすでにこの作品に全て揃っていると言ってもいい。しかも、この作品の最大欠陥─主人公が複数いてどれもイマイチ感情移入しにくい──を見事に解決している。情熱的にして冷静、学者にして冒険家のインディ・ジョーンズという、『失われた世界』の探検隊のメンバー四人を合わせて良いところだけ抽出したようなキャラを作り上げた。代わりに「科学」は最低限に抑え、アドベンチャー至上主義に徹している。さすがスピルバーグ!なのだが、逆にいえば、それ以外は『失われた世界』にすでにあるものなのだ。

 おそらく多くのSFファンや映画ファンには常識の範疇かもしれないが、私の中でようやく整理がついてきた。以下、私の仮説である。

『失われた世界』は「ロストワールドもの」の始祖となったが、それは私が今回、これを読む前に想像していたように、20世紀初頭にまだ秘境探検の余地があったからではない。逆だ。もはや秘境探検の時代なんかじゃないという煮詰まった欧米社会にあえてこういう物語をぶち上げて、「現実にとらわれる必要はない。フィクションの中では何をやってもいいんだ」というメッセージを発信したからではないか。ただし本書は極力「科学」の名のもとに物語を構成している。ロストワールドものとはその意味でやはりSFの一ジャンルなのだ。

 やがて、ロストワールド遺伝子はいくつかに枝分かれしていった。一つは「ジュラシック・パーク」のように、あくまで科学を中心に据えたSFのサブジャンルとして。もう一つは科学よりも秘境冒険に重きをおいた「インディ・ジョーンズ」路線。さらに、アトランティス大陸やマヤ文明な
どに新たな光を求めるフィクション群も現れた。しまいには小説の外つまり現実にも飛び火し、ネス湖のネッシーを筆頭とするUMAを生みだしていった。最近のフライング・ヒューマノイドみたいな、科学を無視したようにしか思えないUMAも、そういう意味ではロストワールドの直系子孫と言える。

 私がかくも熱く語るのは、インディ・ジョーンズこそ自分のもう一つの原点だからだ。「ああ、こういうことがやりたい!」と映画を観ながら何度思ったことか。

 ドイルが生みだしたロストワールドの各流派のうち、もともと私は恐竜やUMAよりもむしろ「失われた世界=謎の古代文明」の方に興味があった。理由の一つは、ハリソン・フォード扮するインディ・ジョーンズの方が川口浩隊長より格好良かったから。スマン、川口隊長。本気で考古学者になりたくて早稲田大学文学部の考古学専修を志望したりもした。成績が足りなくて入れず、代わりに探検部の活動に専念したのである。そうしたらコンゴの恐竜似の怪獣情報が入ってきて、川口浩探検隊もインディの次に好きであったから、そっち路線を爆走したわけだ。

『失われた世界』を四十数年ぶりに再読したら、自分の別の原点を見つけてしまったというドイルもびっくりのドンデン返しなのだった。