第5回 謎のネモ船長の正体は、この男だ!

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 前回、『海底二万里』について、「冒険小説としては今イチ面白みに欠ける」などと恐ろしいことを書いてしまった。でも長大な上下巻を読破し、ノーチラス号&ネモ船長とともに世界中の海を航海した(つもりになった)のだから勘弁してほしい。

 あまりに完全無欠なヒーローは考え物だ。強すぎてピンチに陥ってもピンチに感じられない。「まあ、ネモ船長とノーチラス号なんだからなんとかなるだろう」と読者までが楽観視してしまう。

 ノーチラス号に似た存在に「宇宙戦艦ヤマト」がある。「似た」というより、ヤマト自体がノーチラス号にインスパイアーを受けているのだろうが、こちらは地球人自体が弱くて、滅亡の危機に陥っている。ヤマトも乗組員も無敵から程遠く、デスラー総統率いるガミラス帝国軍の攻撃をかいくぐりながらイスカンダルめざして必死だ。

 ノーチラス号の場合、そのような切迫した事情はなく、英仏米など他の国家の海軍のいかなる船より断然優れているのだから、危機感に乏しい。

 ところが人間ドラマとしては逆転する。本書の主人公はあくまで偶然ネモ船長に助けられたアロナクス教授たち3名だ。彼らは自由に船内を見て歩き、どんな学者も見たことのない海中世界を観察するという夢のような機会を与えられる。ところが、陸上人類と一切交際を絶ち、ノーチラス号を絶対に秘密裏にしておくというネモ船長のポリシーに従えば、彼らは二度と陸上に戻ることは許されない。故郷に帰れないし、海中調査の結果を公表することもできない。死ぬまで潜水艦の中にいるしかない。もしそれに抵抗するなら殺されてしまう。

 ここにドラマが生まれる。すなわち、アロナクス教授らはネモ船長とノーチラス号の完全無欠を信じるがゆえに危険な海中の旅を続けることができるが、同時に、どこかで彼らを裏切り、彼らを打ち負かして、陸上に戻らなければならない。しかし、どうやってネモ船長を出し抜けるのか。そして、たとえネモ船長を出し抜いたとしても、陸上世界に戻ったらノーチラス号の秘密を明らかにせざるをえない。それなくして、博物学調査の発表はできないからだ。すると、高潔なネモ船長たちと彼らの志を殺すことになる。読者もがっかりだ。物語には一貫した倫理(私は「物語内倫理」と呼んでいる)があり、それが壊れると読者の読後感が台無しになってしまう。

 こういった心理的葛藤に私は惹きつけられた。

 もう一つ、全く別の話だが、本書を読みながら私は「この小説を改変したい!」という欲望とも妄想ともつかない思いにとらえられた。

 ネモ船長は何者なのか。国籍不明でアナーキスト。虐げられた者に強いシンパシーを示しているので、かつて巨大な国家もしくは勢力に自分や家族や仲間が蹂躙された経験があり、結果として人類全体を嫌悪し避けるようになったようにも見える。私はそれを考え続けるうちに、脳内でパッと一つの名前が浮かんだ。

 榎本武揚。

 言わずと知れた幕府艦隊の総司令官。彼がネモ船長だとすれば、かなり辻褄が合うのだ。榎本武揚は科学史学者の加茂儀一が「近代日本の万能人」と呼ぶほどの天才だ。幕末に長崎海軍伝習所でオランダ人から機械製造や化学、海軍の技術を学び、さらにオランダへ留学して最先端の科学や国際法を習得した。特に機械製造、製鉄、化学、冶金学、電信に通じていたらしい。幕府がオランダに発注して製造させた当時、世界最新鋭の軍艦「開陽」の受け取り責任者でもあった。その後、デンマークやイギリス、フランスなども見て回り、特にプロイセン・オーストリア連合軍とデンマークの戦争をじかに見学するという貴重な体験もしている。語学の達人でもあり、オランダ語の他、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語も習得していたという。

 日本に戻ってからはご存じのように、薩長の新政府軍と戦うも徳川慶喜が大政奉還してしまったため、梯子を外された形となり、北海道で徹底抗戦を企むも、二度にわたる台風や暴風雪で自慢の艦隊が崩壊。それでも驚異的な交渉能力で蝦夷独立政権をつくってイギリスとフランスに認めさせた。だが、しまいには新政府軍の圧倒的な攻撃を受け、西欧列強からも見放され、孤立した武揚は自刃しようとしたが側近に止められて囚われの身になった。人間としては名誉や地位にこだわりがなく、情義に厚く、保身が嫌いで一途......。

 ほら、偉大な才能をもちながら、巨大な力に虐げられ、人間嫌いになるに十分な人生を経ているではないか。

 ちなみに、明治維新は日本国内では、もっぱら幕府軍対官軍という国内の戦いとして見られがちだし私もそう見てしまっていたが、この『海底二万里』を読んでいると感想が変わる。本書が発表された1870年、世界はすでに西欧列強のものだったことが本当によくわかる。彼らが軍事政治経済的な覇権を得ていたばかりでない。地球そのものが西欧の物理化学や生物学により完全に把握されており、ラッコやセイウチは乱獲の結果、すでに絶滅寸前においやられ、大西洋には電信ケーブルが施設され、いっぽうではネモ船長に救助されながら監禁されたアロナクス教授が「人権」を訴えている。

 列強は世界中で侵略戦争をしかけた。典型的な手口はその国の勢力に取り入り、武器を売りつけて戦わせるというもの。日本の幕末の紛争は、世界各地で繰り広げられた列強による争奪戦の一つの典型例にすぎない。フランスとオランダは幕府に取り入り、イギリスは薩長に与した。坂本龍馬が東インド会社を母体にもつグラバー商会のエージェントだったのは有名な話だ。

 武揚はヨーロッパで学問を修め、実際の戦争も見ていたから、その辺のことは熟知していたはずだ。彼は自分たちを逆賊呼ばわりして滅ぼした薩長はもちろん、裏切った幕府側の人間(特に徳川慶喜と勝海舟)をも恨んでいたが、もしかしたらいちばん憎しみをもっていたのは西欧文明そのものだったかもしれない。

 そして本書の発表は1870年(明治3年)。実はその一年前の1869年、武揚は蝦夷独立政権が崩壊したとき北海道をひそかに脱出し、かつてヨーロッパで築いたネットワークを利用して技術者を集め、秘密裏にスーパー潜水艦を建造した。武揚はとりわけ化学の天才だったと言われる。電気や鉱物資源の利用にも詳しかったことだろう。ノーチラス号建造の資金はもちろん徳川の埋蔵金である。糸井重里らがいくら探しても見つからなかったわけだ。
ネモ船長は他の船員たちと謎の言語で会話しているが、それはもちろん日本語だ。ネモ船長の片腕は、無口にして屈強な副船長。彼は謎の言語しか喋らない。これはどう考えても土方歳三だろう。

 彼ら旧幕軍の残党が立ち上がり、ノーチラス号を駆使して、海底から日本新政府と西欧列強に復讐を挑んでいるのではないか?

 ......なんて、妄想というかムー脳が炸裂してしまった。わかってますよ、無理があるというのは。ネモ船長や副船長が日本人ならさすがにアロナクス教授たちも「東洋人じゃね?」と思うだろうし、第一、榎本武揚は投降・投獄のあと、明治政府のために働いているのである。

 でも私は諦めきれない。だから本書を「改変したい!」と思うのだ。発表後150年も経てば著作権もないだろうし、これほどの古典は公に二次創作の対象になってもいいんじゃないか。なにしろ、ポテンシャルは今でも怪物級なのだ。私には無理だが、優秀な日本の現代SFの書き手にぜひメタSFとしての『シン・海底二万里』を書いてほしいと思うのである。

[参考文献]

加茂儀一著『榎本武揚』(中公文庫)
宮地正人著『土方歳三と榎本武揚 幕臣たちの戊辰・函館戦争』(山川出版社)
榎本隆充・高成田 享編『近代日本の万能人・榎本武揚1836-1908』(藤原書店)
黒瀧秀久著『榎本武揚と明治維新 旧幕臣の描いた近代化』(岩波ジュニア新書)