第2回 『世界文學』のほうへ

  • 昭和文学全集: 織田作之助 武田麟太郎 阿部知二 尾崎士郎 火野葦平 他1人 (第13巻) (昭和文学全集 13)
  • 『昭和文学全集: 織田作之助 武田麟太郎 阿部知二 尾崎士郎 火野葦平 他1人 (第13巻) (昭和文学全集 13)』
    作之助, 織田,麟太郎, 武田,知二, 阿部,士郎, 尾崎,葦平, 火野,義秀, 中山
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 前回、「世界の文芸誌を眺め歩く旅に出よう」とお誘いしておきながら、随分と時間が経ってしまった。みなさんをおいてけぼりにして一人で旅を楽しんでいたわけではない。気を取り直して出発しよう。

 さて、どこから始めるか。

 そう思って、この連載のためにつくっている棚を見る。

 うん、やっぱり『世界文學』がいい。当初はもう連載がもう少し進んでから取り上げるつもりだったけれど、誌名からしても内容からしてもこの旅の出発にぴったりだから。

 この雑誌、私の手元には37冊ある。どうやら38号まで出ていたらしいのだが、その手前までしか持っていない。ついこの前まで「全巻揃い」というのが古本で出ていて、「でも、欲しいのは最終巻だけだし」と躊躇していたら、案の定売れてしまった。

 本を集める趣味のある人なら、「見つけたらいいからその場で買っておけ」とおっしゃるに違いない。私も普段はそうすることが多い。だが、さすがに38冊中の37冊がダブるのはなあ......と思ってしまったのだった。修行が足りない。

 * * *

 実を言えば、連載を開始して第1回を公開した後、いまお見せしたところまで書いてあった(第一段落は今回追記した)。『世界文學』は揃ってないけれど、手元にあるものを材料にまずは書き進めようと考えていたわけである。その甲斐あってというわけではないが、まてば甘露の日和あり。その後、再びチャンスが巡ってきた。

 私の手元には、ほとんど日課のように検索している「日本の古本屋」で、ダメデモトモトと、検索する本や雑誌のリストがある。『世界文學』第38号もその一つだった。

 先日、いつものように検索をかけてみたら、前日までと様子がちがう。表示された結果をつぶさに見なくても、こう、ブラウザに表示されるページの雰囲気から分かるのだ。いや、ほんとに。

 ひょっとして......。そんな予感に高鳴る胸を抑えて、検索結果の検討にかかる。

 むむ......あれれ? あるよ、ある!

 私の目に、こんな表示が入る。そこだけ光って見えるのは気のせいか。

「世界文學 30(昭和24.2-381950.236号は欠 8冊セット」

 だが、人の心はなかなか複雑だ。脳内で二つの声が響く。一方では「慎重に確認せよ」という声が聞こえる。「ほらほら、願望のあまり、なにか勘違いしてるんじゃないかな。お前さんが探しているのは第39号だったりしない? 焦っちゃダメだよ、そうでなくとも粗忽者なんだからさ」

 他方でこんな声も聞こえてくる。「ちんたらしてないで、さっさと注文ボタンを押した押した。考えるのはそれからだって遅くないんだから。第一こうしてる間に売れちゃったら元も子もないでしょ!」

 二つの声のあいだであわあわする。そう、以前そんなふうにして、本当は必要のない本をダブらせて買ったことが(何度も)あった。でも、迷ったせいで入手しそびれたことも一度や二度ではない。板挟みである。

 まあ落ち着け。と自分に言い聞かせて考える。まず注文ボタンは押しておこう。確定する前に書棚を調べてみればいいではないか。なに、ほんの数分のことだ。

 というので、『世界文學』を並べた棚から、古い雑誌の束を取り出す。気をつけて扱わないとぼろぼろと崩れてしまいそう。第1号から順に並べてあるから、最後の号を確認すればよい。とはいえ、念のため通しで見ておくか。1号、2号、3号......35号、36号、37号。これで全部だ。棚にも残っていない。ヨシ。

 パソコンの前に戻って、注文の手続きを進める。この後、「すみません、実は売れた後でした」となる場合もあるから油断は禁物である。ただ、今回は幸運なことに、「単品スピード注文」といって、注文確定とともに決済される代わりに、在庫が保証される(はず)の出品だ。いや、それでも「手に入ったも同然」とよろこぶのは早い。何事にも手違いはある。よかったら、読者諸賢におかれましては、わたくしの幸運を祈っていただきたい。

 * * *

 さて、注文の結果を待つあいだ、話を進めておこう。『世界文學』をご紹介しておきたい。まずは写真をご覧あれ。

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『世界文學』創刊号 高:21センチ 幅:15センチ


 これは『世界文學』の創刊号だ。なにしろ発行されたのは20世紀も半ば頃で、印刷もいまほどよくはないから、見づらいかもしれない。創刊号の表紙に、うっすらと欧文が映っているのがお分かりだろうか。これはなにか。表紙の見返し(表2)にこんな説明がある。

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 『エヌ・エル・エフ』、欧文で書けば『NRF』で、これはLa Nouvelle Revue Françaiseの頭文字。日本語では『新フランス評論』という。説明にもあるように、1919年創刊のフランスの文芸誌だ。よその雑誌を自誌の表紙に載せるということが、どのくらい行われているものか、定かではないものの、はじめてこれを目にしたときは、雑誌のなかに雑誌が入っているような、ちょっと不思議な感じがしたのを覚えている。

 その『NRF』についての説明の末尾に「今次大戰以後の消息は詳かでない」と見える。いまのようにネットで情報発信、ネットで検索というわけにもいかない時代のこと。はるばる海の向こうで発行されている雑誌の消息が、そう簡単には分からなくても無理はない。しかもフランスは、1940年のドイツ軍侵攻以来、1944年まで占領されていたという事情もある。話を戻せば、『世界文學』が創刊されたのは、そんな出来事に続く時代だった。奥付を見てみよう。

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 ご覧のように「昭和二十一年四月號」とある。西暦でいえば1946年。そう、第二次世界大戦が終わった翌年の春のこと。私が見たなかで、世界文學社の最も古い刊行物は、昭和20910日発行のピエル・ロチ『ロチの結婚』(津田穣訳、世界文學叢書4)(国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できる)。この日付がどのくらい実情に即しているかはともかく、1945910日といえば、同月2日に連合国と日本とのあいだで降伏文書調印式が行われて間もなくという時期だ。

 当時の日本の文芸誌はどんな様子だったのか。こんなとき、文学年表が役に立つ。例えば、小田切進編『日本近代文学年表』(小学館、1993)で1945年の項目を見ると、この年の10月から文芸誌や総合雑誌の復刊や新刊が相次いだと記されている(223ページ)。この年表には、そうした復刊や創刊の記録も載せており、『世界文學』が創刊された19464月の項目には、この月だけで同誌を含む創刊17誌の名前が挙がる(225ページ)。なんだかすごい。

 * * *

 そうした時代背景があってのことだろう、『世界文學』創刊号の裏表紙の裏(表3)に置かれた「編輯者のことば」では、1945年に刊行されたバーナード・ショーやエメリー・リーヴスの政治論や平和論の本を紹介した上で、こんなことを述べている。

「我々日本人の置かれた立場はデモクラシーを説きコミユニズムに走る前に今一應否初めて眞實のヒユーマニテイに徹しなければならないのではなからうか?然る後に初めて、我々の思想が、行動が始まるのではなからうか?この深いヒユーマニテイに徹しなかつた似非思想似非文化こそ今日の我々の過誤を招いたのではなからうか?眞のヒユーマニテイに徹すること――我々はかういふ理念で發足し編輯して行く覺悟である。」

 どのような「過誤」かは述べられていないが、終わったばかりの戦争とそれがもたらした状況を指すのだろう。デモクラシーにせよコミュニズムにせよ、なんらかの主義に向かうその前に、「ヒューマニティ」に徹する必要があると指摘している。この「ヒューマニティ」という言葉が、これを書いた編集子の文脈を必ずしもよく共有していない後世の私たちには必ずしも自明ではないが、前後の様子から見ると、あれこれのなんとか主義ではなく、その手前にあって人類に共通の土台である「人間らしさ」や「人間とはなにか」ということを、とことん考えるところから始めねばならない、というわけだろう。人類という普遍的な見方に足場を見出そうということだと思われる。

 ここで興味深いのは、そうした「理念」の実現法だ。一口に「眞のヒユーマニテイに徹する」といっても、それを実現するやり方はいろいろありうる。『世界文學』はどうするのか。先ほど引用した文に続いて、そのことが書かれている。

「今我々の編輯室には極く最近のアメリカの圖書雑誌が續々入つて居り、中國ソ聯のものも近く入る筈である。又二號より本誌は伊吹武彦氏が責任編輯をされることになつた。我々は全力をあげて良き外國文學を紹介して行くつもりである」

 このような時期に、諸国からどんな本や雑誌が運ばれてきたのか、それ自体たいそう気になるところ。それはまたの機会に探るとして、つまりは「良き外國文學」を紹介すること。これが理念の実現法なのだろう。とはいえ、「眞のヒユーマニテイに徹する」ことと、「良き外國文學」を紹介することのあいだにどんな関係があるのかについては、もう少し説明が欲しいような気もする。

 いま、これを勝手に推測するなら、こんなふうに考えられる。私たちは先の大戦で過ちを犯した。その反省から、改めてヒューマニティについてとことん考える必要がある。ところで文学には人間がどのような存在かがさまざまに書かれている。また、文学は諸国で書かれており、これを読み比べることで、互いの違いや共通性を考える手がかりを得られる。そのためにも、よき外国文学を紹介したい。

 この見立てがあっているかどうかはともかくとして、実際のところ、『世界文學』がどのような「良き外國文學」を紹介したかは、後ほどバックナンバーの目次で検討することにしよう。ここでは、その前にもう一つ見ておきたいことがある。

 * * *

 この「編輯者のことば」を記したのは誰か。おそらくは、奥付に『世界文學』の「編輯兼發行者」として名前の見える柴野方彦(しばのまさひこ、1913-1979)だと思われる。彼は、同誌の発行元である世界文學社を創設した人でもあった。文学史の方面では、織田作之助(1913-1947)の友人として時折名前を見かける。

 例えば、『昭和文学全集』第13巻(織田作之助、武田麟太郎、阿部知二、尾崎士郎、火野葦平、中山義秀の作品を収めた巻、小学館、1989)に掲載の「織田作之助 年譜」を見てみると、昭和10年(1935)の項目に「十二月、東大に進んでいた青山〔光二〕、柴野方彦らと同人誌〈海風〉を創刊、白崎〔礼三〕、瀬川〔健一郎〕と共に同人になる」(同書、1055ページ、〔〕は山本による補足)とある。織田作之助、22歳のころのこと。

 目ざとい人なら、先ほどお見せした『世界文學』創刊号の表紙に、「アンドレ・ジイド」「エルンスト・トラア」と並んで「織田作之助」とあったことに気づいたかもしれない。彼らは学生時代から、文学の仲間でもあったわけだ。

 また、同じく織田作之助の年譜、昭和21年(1946)の項目には「この頃居を定めず、世界文学社を連絡場所として多忙な日々を送る。桑原武夫、伊吹武彦、吉村正一郎らと交遊」とも見える(同書、1058ページ)。

 ここに名前の出ている伊吹武彦(1901-1982)は、先ほどの「編輯者のことば」で、第2号からの責任編集として名前が挙げられていたフランス文学者だ。

 ――少しばかり話が込み入ってきた。いや、文芸誌とは、しばしば同人の集まりによって編まれるものであったのだから、話が交友関係に及ぶのはごく自然なことかもしれない。この連載では、文芸誌の内容やつくりはもちろんのこと、そうした関係者についてもできる範囲で触れてみたいと思う。