第1回 「世界の車窓から」のように

 ゆったりとした弦楽器のメロディをバックに列車が走る。

 見渡す限りの草原のなかを、山間にかかる鉄橋の上を、石畳の小さな街のなかを、ガタンゴトンと列車が走る。

 子供の頃、「世界の車窓から」というテレビ番組が好きだった。なんだかんだといって忙しない番組が多いなかで、かたときなにもせず、どこか異国を走る列車の窓から見える風景をのんびりと眺める。

 私の頭のなかでは、小説や詩を読むことは、どこかで「世界の車窓から」とつながっている。なんだろう、他になにもせず、ここではないどこかに心を遊ばせるところだろうか。文芸の場合、時代も場所も状況も立場も自由自在だ。

 なかでも文芸誌は、いろいろな作品が一冊に綴じられていて、駅から駅へと走っては停車するたび、景色もそのつど変わってゆくような楽しみがある。こうなると「世界の車窓から」というよりは、『銀河鉄道999』かもしれない。

 いつの頃からか、文芸誌を読む楽しみを覚えた。

 はじめて読んだのがどれなのかは、とんと記憶がない。いずれ古本屋の軒先で出会った雑誌に、興味を惹かれる名前を見つけてのことだっただろうと思う。

 それとなく記憶の底を覗いてみると、『世界文学』という雑誌が思い出される。

 大学生の頃(1990年代前半)、「世界文学」という言葉に惹かれていた。ゲーテの本かなにかで見かけたのだろう。それが頭の片隅にあったせいか、神保町の古本屋を覗いて歩くなかでその雑誌に遭遇できたのだと思う。というのも、厖大な本の海のなかでは、自分が関心を持っているものが向こうから目に飛び込んでくるものだ。

 記憶がたしかなら、それは薄い雑誌で、背にうすらと誌名が見えて、なんだろうと抜き出して表紙を見たはずである。

 そこには知らない世界への入口があった。私は数百円のお代を払って、近くの喫茶店に入り、しばらく読みふけったと思う。いずれこの連載でもご紹介するけれど、戦後に創刊された文芸誌だ。

 また、大学や近所の図書館の雑誌コーナーを見るのが好きだった。ジャンルを問わず最新号が並ぶ一角がある。ニュース、法律、数学、歴史、思想、科学、経済、政治、コンピュータなどの雑誌をぱらぱらめくる。そのなかに文芸誌もあった。

 名前を聞いたことのある作家や読んだことがある作家、はじめて目にする名前が並び、その新作や批評や対談や書評が、数百ページにぎっしり詰まっている。なんなんだこれは、ワンダーランドか。

 そのつもりで探すと、文芸だけで何誌も出ているのが分かる。すごい。毎月毎季節、こんなにたくさんの新作が書かれているのか。いったいどうなってるの......と驚きもした。

 いまならネットの小説サイトに、何十万もの作品が掲載されていて読み放題だから、文芸誌で驚くことはないかもしれない。念のため言い添えれば、上記は、まだネットが普及していろいろなものが共有される以前の世界のことだ。

 かつて雑誌は、各分野の冒険家たちが、まだ誰も確たることを見定めていない、既知と未知のあいだで見聞きしたこと、発見したことを報告してくれる、そんな場であるように思えた。しかも、その名に相応しく雑多なものが並び、目にうれしく、内容に比して廉価ときたものだ(嚢中乏しい学生には今も昔も重要な要素である)。

 私はそれ以来、『群像』『新潮』『すばる』『文學界』『文藝』『リテレール』『早稲田文学』......といった雑誌が出るつど読み、古本屋では昔の文芸誌を見つけると手にするようになった。

 それから四半世紀ほどが経って、近頃、なんの因果か、『文藝』(河出書房新社)で文芸季評を担当している。今度は仕事として、毎月出る文芸誌を熟読しているわけである。

 しかもかつてと違って、現在では、そのつもりになれば、ネットで世界各地の文芸の様子も目に入れやすい。また、過去に発行された文芸誌もあちこちのアーカイヴで閲覧できる。加えて、小説や詩もみなが思い思いにいつでもそうしたければ発表できる場でもある。もはや、いかほどの文芸作品や雑誌やウェブがあるのか、誰も把握しきれていないと思う。

 こうした状況で、つい考えてしまうことがある。

 ネットにこれだけ文芸が満ちあふれているなかで、文芸誌を毎月編んで印刷することには、また、それを読み続けることには、どんな意味があるのだろう。いや、文芸誌ってそもそもなんだったのだっけ。私は、だんだんと分からなくなってきた。

 なんだか分からないまま続けるのも悪くない。ただ他方で、こんなとき、私は過去を知りたくなる。あるいは、他の地域ではどうなっているのかを見てみたくなる。

 そうだ、「世界の車窓から」のように、いろんな文芸誌を眺めてみよう。それでなにが分かるという保証はない。それでも、かつてそれぞれの時代と場所で文芸誌を編んだり書いたり読んだりしていた人たちの悲喜交々が目に入るのではないか。人びとが、文芸誌という舞台でなにをしてきたかという、その痕跡を垣間見ることができるのではあるまいか。

 そう思うと、芭蕉の「そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず」ではないけれど、なんだか旅に出るような気分で世界の文芸誌を眺め歩いてみたくなってきた。

 という話をいつだったか本の雑誌社のTさんにしゃべっていたら、ウェブに場所を貸してくださるという。そこでしばらく、のんびりあちこち寄り道をしながら、あれこれの文芸誌やその歴史を訪ね歩いてみようという次第。

 はてさて、どんな道中になりますか。ゆっくりおつきあいいただければ幸いです。

(つづく)