【今週はこれを読め! SF編】火星と地球、その距離と葛藤〜小川哲『火星の女王』
文=牧眞司
なんと『火星の女王』である。いかにもSFの直球というか大時代的なタイトルだが、この作品における女王とは象徴であって、エドガー・ライス・バロウズ『火星のプリンセス』のように、火星に君主国家があるわけではない。
しかも、本書で「火星の女王」と呼ばれてしまうリリ-E1102にとっては、女王などまったく本意ではなく、たまたま大衆の熱狂の焦点になっただけだ。もっとも、「たまたま」というのはあくまでリリの観点に立ったときであって、意図的にリリを利用しようとする勢力があり、また、その勢力の思惑すら届かぬところで、過去からつながる複数の因果の糸が絡まっている。その因果の複雑さが、物語の進行につれてだんだんと明かされていく。そこに個性的な登場人物たちが巻きこまれていくわけで、小川哲ならではの堂々たるエンターテインメントに仕上がっている。今年十二月には、NHKでドラマ化されるそうだ。
まず、物語の設定を説明しよう。
人類が火星に植民をはじめたのは四十年前。惑星間宇宙開発機関(略称ISDA)を中心に、さまざまな国家や企業がスポンサーとなって十三のコロニーが完成した。火星植民の費用は、火星やその周辺で採掘するレアメタルによって回収する試算だったが、予定外のトラブルがつづき、計画は見直しを余儀なくされる。ISDAは火星への投資を減らし、いまいる十万人ほどの植民者たちも全員、地球へ戻す。名づけて「地球帰還計画」だ。しかし、「帰還」というのは地球中心の発想であって、すでに火星にはそこで生まれた者がいる。また、地球出身であっても帰還を望まない者、健康面で惑星間航行や地球重力に不安を覚える者も多い。そもそも、火星から地球への莫大な渡航費を、自分で負担しなければならない。
その一方で、火星での生活は苛酷だ。物資の多くはいまだ地球に依存しており、エネルギーも充分に確保できていない。住民は手首にタグを埋めこまれ、そこから吸いあげられたマーケティングや健康などのデータは、ISDAが勝手に利用する。そんな管理を逃れようと、自らタグを除去し、なかばドロップアウトした生活を送るひとたちもいた。彼らはタグレスを名乗り、タグ付きの住民のなかにもその思想に共感する層もいる。
地球と火星のあいだにある格差と感情的なわだかまり。火星が自分たちの自主性を主張しても、圧倒的な優位にある地球に押しきられてしまう。
そんな状況を一変させたのが、ある発見だった。
地球外生命体の存在を信じて研究をつづけてきた生物学者リキ・カワナベが、火星の地底湖で見つけたらせん構造を持つスピラミンという物質の挙動。スピラミンそのものは珍しいものではない。しかし、その一部が結晶形を変える性質を持っており、遠く離れた場所にあるスピラミンが同時に変わる。つまり、光速を超えて情報伝達がおこなわれている可能性だ。
科学者であるカワナベは、自分の発見についてはあくまで慎重だ。しかし、カワナベの研究を支援する実業家であり、火星コロニー13の代表でもあるルーク・マディソンは、スピラミンの特性をセンセーショナルに公表し、それを地球との強力な外交カードに用いようとする。超光速の情報伝達を兵器に応用すれば、地球・火星間ほどの距離がある場合、きわめて有利な戦略が可能になる。
ISDAもすぐにスピラミンが秘める脅威に気づき、地球と火星との緊張は一気に高まる。おりしも大型宇宙船FTL(Faster Than Light[光より速く]にちなむ船名)が火星から地球へ向けて(正確にはフォボスから国際宇宙ステーションへ)出発しようという矢先のことだった。FTLは、ISDAが目論んでいる「地球帰還計画」の要である。
ここで、ふたつの事件が発生する。
ひとつは、FTLに乗る予定だったひとりの乗客の誘拐。彼女の名はリリ-E1102。二十一歳の学生だ。彼女の母は、かつてISDA火星支部長をつとめたタキマ-E1102である。タキマは、リリを火星に残して地球へ帰還し、現在はISDA種子島支部長という要職にある。火星の住民には、タキマを嫌悪する者と好意を寄せる者が、相半ばする。
リリ自身は才気煥発ではあるが、権威も地位もない。そして、十三年前の事故で視力を失っており、もっぱら聴覚に頼って日常生活を送っている。彼女がこの物語におけるいちばんの主人公であり、この誘拐事件をきっかけとして大きな運命の渦に巻きこまれていく。彼女が特別なのは、たんにタキマの娘という立場だけではない。FTLで地球へ向かうはずだった乗客は二百五十三名。そのうち二百五十二名は、地球への永住希望者(つまりISDAの「地球帰還計画」に従ったひとたち)である。リリただひとりが、観光ビザでの地球滞在を希望していた。彼女は火星にまた帰ってくるつもりだったのだ。それは彼女のアイデンティティにかかわる問題である。
もうひとつの事件は、スピラミンの盗難だ。厳重に保管していたラボからサンプルを持ちだした者がいる。これが地球側に渡れば、ようやく手に入れた火星の有利が覆ってしまう。火星から地球へモノを運ぶ直近の方法は、FTLに載せることだ。火星側としては盗難事件が解決しないかぎり、どんな手段を使ってもFTLの出発を阻止したい。
幾重にも波瀾を含んだ物語が、並行する複数の主観によって語られる。視点人物は----
誘拐事件から火星の女王騒動へ、渦中の人となるリリ。
スピラミン変化の同時性を発見した、科学者カワナベ。
地球でリリの到着を出迎えるはずだったISDAの職員、白石アオト。
リリ誘拐事件とスピラミン盗難事件を同時に捜査するはめになる、自治警察の非常勤職員マル。
いずれの人物も個性が語り口に出ていて、物語に彩りを添える。このあたり、ドラマ化でどう演出されるか楽しみだ。
そして、視点人物ではないものの、物語を大きく動かすキャラクターがもうひとり。先述した実業家ルーク・マディソン、スピラミンを地球との外交カードに利用する人物である。彼は大口をたたく喰わせ者か? それとも、火星の未来のために行動する理想家か? リリもカワナベもマディソンを胡散臭い人物だと見なし、信用していない。しかし、彼の大胆な行動力や意表を突く策謀には一目を置いており、警戒しながらも手を携える局面もある。なかなか味の深いバイプレイヤーだ。その突飛な行動は、最後まで周囲を(そして読者も)振りまわしつづける。
(牧眞司)


