【今週はこれを読め! ミステリー編】2022年最大の収穫『1793』三部作を読み逃すな!

文=杉江松恋

  • 1793 (小学館文庫 ナ 1-1)
  • 『1793 (小学館文庫 ナ 1-1)』
    ニクラス・ナット・オ・ダーグ,ヘレンハルメ 美穂
    小学館
    1,342円(税込)
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  • 1794 (小学館文庫 ナ 1-2)
  • 『1794 (小学館文庫 ナ 1-2)』
    ニクラス・ナット・オ・ダーグ,ヘレンハルメ 美穂
    小学館
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  • 1795 (小学館文庫 ナ 1-3)
  • 『1795 (小学館文庫 ナ 1-3)』
    ニクラス・ナット・オ・ダーグ,ヘレンハルメ 美穂
    小学館
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 絶望と闘う正義の物語である。

 ニクラス・ナット・オ・ダーグ『1795』(小学館文庫)を読み終え、圧倒されている。正義の貴さと、その無力さをここまで誠実に描いた小説はまたとないはずだ。世界の大部分は闇に支配されているという事実から目を背けなければ、人間は生きていけない。自分の背後には常に見えない暴力の気配が漂っているのに、みな気づかないふりをして生きている。世界の正しい側に身を置こうとする者は、自分の敵がいかに強大であるかをすぐに思い知らされることになる。諦め、目を瞑るか。それとも身を捨ててでも正義を貫くか。後者の選択をした者たちが本書の主人公だ。

 本書は『1793』『1794』と続く歴史ミステリー三部作の完結篇である。というよりも『1794』と『1795』は前後編として扱うほうが正しい。『1795』のプロローグは『1794』のエピローグと言うべき内容になっているのである。三部作の基本構成をまず紹介しておこう。

 スウェーデンという国家が大混乱のさなかにあった1793年に第一作の幕は上がる。舞台は王国の首都ストックホルム、物語の主役となるのは元兵士のジャン・ミカエル・カルデルと法律家のセーシル・ヴィンゲである。肺病に蝕まれて余命いくばくもないという状況でセーシルは登場する。類まれな知性の持ち主である彼は警視庁の臨時職員に雇われていた。四肢を切断された無残な死体が発見され、セーシルが弱り切った体で無理をしながら事件捜査に乗り出す。その相棒としてカルデルが起用されるのだ。対ロシアの海戦で左腕を失ったカルデルは、通称引っ立て屋と言われる風紀取締隊として身過ぎを行っていた。瀕死の探偵と体力馬鹿の助手というコンビが、難事件を解決に導いたのである。

 題名からわかるとおり『1794』は第一作の翌年の話だ。婚姻の晩に若い花嫁が森の狼に食い殺されるという事件が起き、カルデルはその母親に真相を調べるように依頼される。しかし、カルデルが得意とするのは腕っ節に物を言わせることであり、頭脳担当ではない。すでにセーシルは肺病のためこの世にいないのである。そのカルデルの前に、かつての相棒と瓜二つの男が現れる。セーシルの弟、エーミルだ。これ幸いとカルデルは、彼に兄の代わりをさせて事件捜査に乗り出していく。

『1793』は端的に言えば変形のホームズとワトスン・コンビを配した探偵小説であった。発見された死者がなぜそのような無残な姿になっていたのかという真相など、謎解きの関心で物語を牽引していく部分も大きかった。全体は四部構成になっており、視点人物が交替しながら、全体として大きな図柄を描き出していくという大河歴史小説の要素も同書には備わっていた。第三部で重要な役割を担うのは、売春の罪を着せられて強制労働施設に送り込まれる、アンナ・スティーナという少女である。セーシルとカルデルが事件を解決に導くヒーローの位置づけなら、彼女は事件に巻き込まれる被害者側の人物だ。そうやってまんべんなく登場人物を配することで、作者は18世紀ストックホルムの全体像を描こうとしたのである。

『1794』では、主人公のコンビが解体され、ホームズの代わりにホームズ・ダッシュというべき第二の探偵が起用される思い切った展開になる。その意味ではまだ探偵小説の性格は残されているのだが、すぐにそれだけではとらえきれない小説だということがわかる。事件の黒幕が早々に登場し、その邪悪な意図をカルデルたちに明かすからだ。ホームズ譚のモリーアーティ教授はあくまで背景にいる人物だが、『1794』では悪の側が主導権を握ってしまう。この魔王というべき黒幕の犯罪計画はあまりにも恐ろしい。時代設定が1790年代に設定されている意味も、ここで初めて明確になるのだ。

物語の始まる前年、1792年は、スウェーデン国王グスタフ三世が仮面舞踏会で銃殺されるという大事件が起きていた。先に国家が大混乱のさなかにあったと書いたのはその余波がまだ収まりきっていない状態だからである。グスタフ三世の時代には華やかな宮廷文化が絶頂を迎えたが、階級間の格差は甚だしく、人民は貧苦にあえぐことになった。大いなる偽善によってグスタフ三世の治世は成り立っていたと言ってもいい。『1794』の黒幕は、そのことを前提として登場してくる。人間の繁栄は他人の犠牲の上にある。弱肉強食としか言いようのない原理が世界には成り立っている、それを直視しろ、と怪物は読者に迫る。『1794』で描かれるのが目を背けたくなるほどに惨たらしい犯罪なのは意味がある。他人が絶望の淵にいても、そのことに気づかぬふりをして自らの平和を守ろうとするのが人間の真実ではないか、という問いかけがあるからだ。凄惨な場面は、目をそらさずにこれを見ることができるのか、という怪物からの挑戦状でもある。

そして『1795』である。前作の最後である出来事が起きて、怪物は逃走した。しかし完全に敗北したわけではなく、そもそも彼に代表される暗黒、国家そのものともいえる悪の本体はそのまま安泰を保っている。これに挑戦しない限り、真の正義は達成しえないのである。存在そのものが国家であると言ってもいいほど強大な敵に、カルデルとエーミルは立ち向かうことになる。彼らはほぼ無力である。抵抗の手段は一つだけ、命を落とさずに真実を求め続けることなのだ。第一作から登場しているアンナが、事件の鍵を握る人物になる。彼女は前作の終りからずっと消息を絶っており、カルデルがその行方を追うことになる。強い者が弱い者を虐げる暴力の構造において、アンナは最下層にいる存在である。物語の最後で構造は逆転し、最も重要な答えを下す役割は彼女に任されることになる。これはもちろん作者が最初から狙っていた仕掛けだろう。三部作における実質的な主人公はカルデルだが、最も印象に残る登場人物はこのアンナなのだ。

本国では三年がかりで刊行された作品だが、邦訳は『1794』『1795』が二ヶ月連続で出るという形になった。たいへん大部の小説なので、もし時間がなければ『1793』を後回しにして『1794』から読むのがいいと思う。三部作で最も凄惨な場面が描かれるのは『1794』なのだが、そこを堪えて進めば『1795』では絶対に報われることになるはずだ。世界を覆う闇の暗さに負けない光の目映さをこの小説は教えてくれる。犯罪小説としては2022年最大の収穫であり、里程標と言うべき作品である。決して読み逃さぬよう、念を押す次第。

(杉江松恋)

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