【今週はこれを読め! ミステリー編】円熟のシーラッハ短編集『午後』

文=杉江松恋

  • 午後
  • 『午後』
    フェルディナント・フォン・シーラッハ,酒寄 進一
    東京創元社
    2,090円(税込)
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 もっとも好きなシーラッハかもしれない。

 フェルディナント・フォン・シーラッハの新作『午後』(酒寄進一訳。東京創元社)が刊行された。

 シーラッハは1964年にドイツのミュンヘンに生まれ、刑事弁護士として活動する傍ら、2009年に第一短篇集『犯罪』(創元推理文庫)で作家デビューを果たした。人が犯すさまざまな罪、心の中に潜む悪意が顔を出す瞬間を描いた連作で、その中には自身が弁護士として担当した事件に着想を得たとも思われるものも含まれている。同作は多言語に翻訳されるベストセラーとなり、ドイツの犯罪小説・ミステリーに世界が注目するきっかけを作った。

 その後もいくつかの短篇集や連作、戯曲などを著わしており、日本ではすべて酒寄の手で翻訳紹介されている。『午後』の本国における刊行は2022年、講演などの依頼を受けて世界中を旅してまわる作家〈私〉が各地で出会った人々から聞かされた話をランダムに並べたという体裁である。事件に関する聞き書きに徹しているわけではなく、作家が各地で感じた印象や、小説家や芸術家についての覚え書きなども織り交ぜられている。

 第二次世界大戦時にナチ党全国青少年指導者であったバルドゥール・フォン・シーラッハは作者の祖父であり、そのことを含めた自身の過去、あるいは祖国の負の歴史と向き合う物語として2011年に『コリーニ事件』(創元推理文庫)を発表している。『午後』にも、〈私〉が離婚して家を出た母と、別れを突き付けられた後に荒んだ生を送った父について振り返る印象的な章が含まれている。

 シーラッハは2019年に『珈琲と煙草』(東京創元社)を発表した。コーヒーや煙草はひとときの休憩の中で嗜まれるもので、そこで浮かんでくるものを形式にこだわらず集めた自由なアンソロジーの形式を取っている。文字通りの随想から創作まで、内容はさまざまだった。旅行記の体裁を持つ『午後』はこの『珈琲と煙草』に近い作品に見えるのだが、読んでみれば全体を貫く主題の存在は明らかであり、『犯罪』『罪悪』『刑罰』(創元推理文庫)と続く、犯罪小説の連作短篇集に分類することも可能である。過去に培った技法を駆使した、現時点における作者の到達点と評価すべきであろう。

〈3〉の章では、〈私〉が東京で新宿区のパーク・ハイアットに投宿したときのことが書かれている。酒寄のあとがきによれば、シーラッハが東京で同ホテルに泊まったのは事実らしい。ビル・マーレイ主演、フランシス・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』はここで撮影された。パーク・ハイアット側の手違いにより〈私〉はアリスンというアメリカ女性と夕食で同席し、彼女の結婚にまつわる話を聞かされることになる。

 同じく講演旅行の話である〈20〉では、ドイツのハンブルグで「私はトムのガールフレンドでした。学生時代に」と名乗る女性に話しかけられる。ベルリン行きの最終列車に乗らなければならない〈私〉は、トムという名前に心当たりがなかったこともあり、女性の話を聞かずに立ち去ってしまう。後で思い出したのはそれが22歳の大学生時代に起きた出来事にまつわる名前だということだった。

〈3〉と〈20〉は過去の回想を扱っているということでは共通点があるが、その内容は軽率に等号で結ばないほうがいい。後者は若さが引き起こした愚行の話で、広義の犯罪物語と言うことができる。だが前者の中に犯罪行為は存在しない。厳密に言えば倫理上の過ちが描かれるのだが、暴力を伴う後者と同一視するのは無理筋だろう。

 シーラッハが連作短篇集でよく用いる手が、隠喩の指標として共通の何かを忍ばせることで、本作では時計がそれに当たる。時の経過によって風化していく何か、逆に自身の人生を振り返ったときに忘れがたい痕跡を残しているものが、各章の叙述には織り込まれているのである。『午後』という題名の意味は〈26〉で明らかになる。終章に辿り着いた方に新鮮な思いでそれを見ていただきたいので詳細については省くが、人間は自身の来し方と向き合うときに初めて真の意味の孤独を味わうのである、という真理について磨き抜かれた言葉で書かれた一文であると思う。

 エピグラフとして引用されており、冒頭の〈1〉でも言及があるのが、トーマス・マン『魔の山』中の「人間は善意と愛情を失わないために、思考を死に支配されないようにしなくてはならない」という一節である。この〈1〉でも「午後」についてさりげなく触れられているのだが、作者の心を覗きこめるほどあからさまではない。

 人間が「善意と愛情を失」ってきた過程、現代を構成する要素についても随所で振られている。〈19〉は複数の性暴力で告発されたハーヴェイ・ワインスタインの裁判にまつわる話で、見開き2ページと短いが考えさせられる内容になっている。語り手の女性裁判官の言に耳を傾け、自分がどのように感じるかを試してみていただきたい。リトマス試験紙のような一章だ。

『犯罪』からのファン、シーラッハを犯罪小説作家として支持する読者に最も好まれるはずなのが、〈16〉の章だ。〈私〉は過去に短い間つきあいのあったメロという人物の葬儀に出て、クリスティアーネという女性の昔語りを聞くことになる。一篇の犯罪小説として独立した内容になっており、分量も多い。幕切れは鮮やかで、『犯罪』所収の「緑」などを連想した。短篇作家としてのシーラッハは健在である。

 短篇集ではあるので、つまみ食いをするようにどこから読んでもかまわない。前述したように初めから順番に読んでいったほうが受け止めやすい仕掛けも盛り込まれているが、そこは本を手にした人の自由だろう。いかなる読み方をしてもずっしりとした手応えを感じるはずである。円熟のシーラッハ、やはりいちばん好きな一冊となった。

(杉江松恋)

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