【今週はこれを読め! ミステリー編】『猿』は正調の京極夏彦作品である!

文=杉江松恋

  • 猿
  • 『猿』
    京極 夏彦
    KADOKAWA
    2,200円(税込)
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 ああもう、これはどうやって紹介すればいい本なんだろうか。

 京極夏彦の新刊『猿』(KADOKAWA)を前に、私は途方に暮れている。

 うっきー、と叫びたいくらいである。『猿』だけに。

 漢字一文字の題名は非常に不愛想だが、坂野公一の手がけた装丁も同じくらい情報量が少ない。特殊加工の凝らされた表紙は、遠目で見ると猿の顔が浮かび上がってくる仕掛けだ。単行本の帯には推薦文やら、本を売るためのコピーやらが賑やかに並んでいるものだが、こちらも非常に消極的で、空間の目立つ。表側に「いけませんよ。外に出ては----怖いですから」という台詞と「恐怖の本質に迫る、瞠目の長編小説」なる一文が並ぶ。背に当たる部分には「悪い予感が、それを呼び込む」とあり、裏面にはいくつかの断片的な言葉があぶくのように置かれている。その中で一際目を引くのが「猿がいる」という台詞である。そして「遺産相続」「限界集落」という文字があるのも目につく。読後に見返すと、たしかにこれらの単語は内容に関わるものだとわかるのである。

 おそらく版元には、予断なくこの作品を読んでもらいたいという意向があるのだろう。よろしい、それに沿った形で可能な限り紹介してみよう。

 視点人物は松永祐美という女性である。祐美は、曾祖母である外田のうが享年百で亡くなったことを再従妹の戸田芽衣から知らされる。のうは、その歳まで一人暮らしをしていたのだという。それも山奧の村で。地名は祢山村というらしいのだが、不可解なことにそんな地名は岡山県の地図に載ってさえいない。曾祖母の遺産相続人は祐美と芽衣の二人しかいないということで、のうと契約している弁護士事務所の山川とそこで働く尾崎真智に誘われ、祢山村を目指すことになる。

 あらすじとして書けることはこれだけだ。というよりも、これ以上のことは起きないと言ってもいい。もちろん行った先で起きる出来事はあるのだが、物語のツイストになるようなものではない。四人が村に行く。着いた。そういう小説である。もちろん、そんな道行をただ書いただけでは360ページもの分量を小説として読ませられるわけがないので、4人は道中でいろいろと話をする。主に亡くなった祢山村と、外田のうについて。そこに溢れんばかりの情報が詰め込まれている。これは先入観なしに読んだほうが絶対にいいので、ここでは一切省略することにする。

 ただ、本作をミステリーの欄で紹介する意味がこれだけだとわからないと思うので、フックとなる前提条件だけ書いてしまう。問題は祢山村だ。この村は、変なのである。

 現在の居住者は八十人程度、全員が六十五歳以上というから、いわゆる限界集落と呼ばれる条件を満たしている。限界集落というものは次第に成るものだ。初めは若い人もいてこどもが生まれ、世代交代も起きる。それがなくなって住人が固定化すると、次第に平均年齢が上がっていき、限界集落化する。だが、違うようなのである。

 祐美よりも祢山村について詳しい芽衣によれば、そこには昭和の頃からずっと、六十歳から七十歳くらいの老人だけが住んでいたのだという。しかも村内に彼らの墓は存在しない。それ以上の高齢になると住人は村を出て行って、どこかほかの場所で死ぬようなのである。

 六十五歳以上の老人が入れ替わりながら継承されている限界集落。これは確かに奇妙だ。祐美たちの曽祖母である外田のうは、例外的に祢山村で出た死者なのだ。

 この謎がまず突き付けられて、次第にどういうことかがわかってくる。その過程がすこぶるおもしろい。謎解きというよりは民俗学的な絵解きと言ったほうが正しいのかもしれないが、ミステリー読者の興趣を誘う論理がそこにある。〈百鬼夜行〉や〈巷説百物語〉などの人気シリーズなら妖怪絡みで設定される謎が、これは昭和以降の話だからそれ抜きの構造になっている、と言えば京極夏彦ファンにはわかってもらえるはずである。

 おもしろかったのは話題の途中で〈因習村〉について触れる箇所があることで、「因習に満ちた村に迷い込んで怖い目に遭う」という物語類型について、疑義が呈される。この、さして検証されずに流布してしまっている通念についての分析も京極作品でおなじみのものだ。本作ではギミックだけではなく、もっと上位の概念についても検討が行われる。すなわち「怖い」とはどういうことか、という問いである。それがあるから「恐怖の本質に迫る、瞠目の長編小説」なのである。

 やや踏み込みすぎたかもしれないので、内容紹介はここまでにしておく。注意深い読者はあることに気づかれたはずだ。ここまでの文章で一回も猿について触れていない。題名に出てくるくらいなのに。猿はどこに行った。

 猿がいる。

 隆顕がそう言った。何だかどうでも良かった----というか目の前の作業に没頭していて----いや、何も考えていなかったから聞き流しそうになった。でも。

 というのが書き出しの文章である。隆顕というのは祐美の配偶者で、今は事情があって引き籠り生活を送っている。愛すべき夫であるが、祐美にとっては心配の種でもある。その隆顕が物語に猿を呼び込むのである。祐美の心に猿が住みつく。隆顕の言葉がなければ、そんなことにはならなかったはずだ。祐美の心を完全に閉じさせず、不安の風が入り込むようにさせるための窓を「猿がいる」という一言がこしらえる。本作における「猿」とは人間に襲いかかる野獣といった具体的な脅威ではなく、人の心をざわつかせるための触媒なのである。そのくらいに理解して読み始めていただきたい。

 本作は『怪と幽』に三回掲載され、以降が書き下ろしの形で単行本化された。ちなみに本作の前に同誌で連載されていたのは『了巷説百物語』である。それが終了し、〈巷説百物語〉が大団円を迎えた後、京極夏彦は次に何を書くのだろうか、と読者は待ち構えていた。

 そこに。

 猿がいる。

 なのだから、どれくらい驚いたことか。これはいったい何なのだろうか、と訝しみながら連載を読み、訝しみながら単行本で結末まで読んだ。これもやはり、正調の京極夏彦作品であった。題名は『猿』だけど。『猿』だけどぜひ読んでもらいたい一冊だ。

(杉江松恋)

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