【今週はこれを読め! エンタメ編】気鋭の歌人の小説世界に引き込まれる〜川野芽生『月面文字翻刻一例』

文=高頭佐和子

 気鋭の歌人による2冊目の小説集である。読み始めてすぐ、今自分はすごいものを手にしているという気持ちになった。小説に描かれる世界に引き込まれ、自分の周りだけ空間が切り離されていくような感じだ。

 大正時代に書かれた小説だと言われたら信じてしまいそうな、端正で品格のある選び抜かれた言葉。異世界で起きる出来事を描いていながら、現実社会にも鋭く切り込んでいく今日的なテーマ。そして、脳裏に浮かんでくる映像の、儚く脆いような美しさ。この本の中に深く潜り込んで、掌編と掌編の間を、旅するようにいつまでも行き来していたい。そんな危険な気持ちにさせられた一冊である。

 最も印象に残ったのは、最後に収録された「蟲科病院」という短編だ。主人公は、大学病院に勤務する医者だ。祖父が院長を勤める「蟲科」を専門とする大きな病院を、いずれは継ぐ予定だ。蟲科とは何か。問題行動を起こす人間の胸には蟲がおり、かつてはそれを手術によって除去するという治療を行なう科だったのだが、現在は全ての住民に定期的な検査が行われており、蟲を取り除くだけではなく良性の蟲を植え付けている。そのことにより、犯罪率や自殺率が劇的に減少し、生産性が向上した。この「予防接蟲」の実用化に大きく貢献したのが主人公の祖父なのである。家柄も最高のスーパーエリートで、順風満帆の人生を送っているように思われる主人公であるが、人に言えない大きな秘密がある。

 この設定だけで心臓の鼓動が激しくなる魅力があるが、空から碧い鉱物が降ってくる自然現象や、謎の研究をしている叔父の異様な風体、地下鉄道の開発により大量発生した竜など、新たな物語の種にもなりそうな事象が次々登場する。想像力が刺激される一方で、現実にある人の苦しみや社会の病理も描かれる。それらが、著者の筋の通った美意識によって選ばれた言葉だけで紡がれていることに、心打たれるのだ。静かな場所で姿勢を正し、集中して堪能したい小説集である。

(高頭佐和子)

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