【今週はこれを読め! エンタメ編】線引きのできない複雑さ〜金原ひとみ『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』

文=高頭佐和子

  • YABUNONAKA―ヤブノナカ―
  • 『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』
    金原 ひとみ
    文藝春秋
    2,420円(税込)
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 人と人は、どうしようもなく食い違う。傷を負った側と負わせた側では、同じ場所にいても全く違うものを見ているのだ。近年報道されたたくさんの事や、過去に私の周辺で起きたいろいろな出来事が次々に心に浮かんできて、冷静に読むことができない小説だった。すっかり治ったと思っていた傷も引っ掻けばまた疼くし、血も滲んでくることを実感させられる。だが、読みながら強く感じていたのはそれとは違う種類の痛みなのだと思う。

 大手出版社に勤務する木戸悠介は、ブラックな小出版社から転職し、文芸誌「叢雲」の編集者となり、ついには編集長にもなった。現在は出版部の部長職にあるが、仕事に対する情熱や矜持はもはやない。二度の離婚により生じた養育費やマンションのローン、母親の介護費用を払うことだけが自分に与えられた使命と思っており、機械的な日々を送っている。

 長岡友梨奈は、若くしてデビューした四十代の小説家だ。長い間担当だった木戸のことを編集者として高く評価してはいないが、関係が悪いというわけではない。離婚に応じようとしない夫と大学を休学中の娘とは別居し、恋人と暮らしている。持病が悪化した純文学作家・坂本の代理で大学の授業を受け持っているのだが、講義を終えて帰宅する途中で、橋山美津と名乗る女性から声をかけられる。橋山は、八年前に長岡が選考委員をしていた叢雲新人賞に応募し、最終選考に残ったという。学生時代に坂本の紹介で木戸と知り合い、就職や執筆のアドバイスを受けているうちに恋愛関係になったが、性的に搾取をされていたのだと告白する。

 その後、「叢雲」編集部員の五松武夫が、マッチングアプリで出会った女性から言動をSNSで晒されて炎上する。そのことをきっかけに、橋山はネットで長い告発文を発表する。事態は、木戸の高校生の息子、ある事情から家に引きこもっている長岡の娘、元は長岡のファンだった年下の恋人を巻き込んでいく。

 年齢も性別も経歴も違う八人の語り手により、告発の影響が語られる。登場する全員に隙のない立体感があり、彼らの目に映っているもの、心に浮かぶ考えが実在の人物のもののように迫ってきたことに、心底驚いた。被害者は善で加害者は悪。そんなふうにはっきりと線引きし、敵と味方にわけることはできない。どの人物の中にもさまざまな色あいと濃淡があって、それが複雑なグラデーションを作っている。それぞれが持っている色の一部は、私の中にもあるものだ。

 木戸の中にある無自覚の加害性と他者に晒すことのできない孤独は、私とも決して無縁ではない。長岡の中にある怒りと暴走しそうになる正義感を自覚することもある。若い世代の中にある大人たちに対する嫌悪感や反発にも覚えがある。わかり合いたいという切実な気持ちとわかり合えないという諦めは、当たり前のように共存している。

 変わっていく時代を、爽快に思うことも戸惑うこともある。やり過ぎたり、後悔したり、しくじったりを繰り返して、たくさんの矛盾が心の中に蓄積されている。これからも変化していく社会の中で生きていく私に、今必要な痛みを、この小説は容赦なくもたらしてくれた。

(高頭佐和子)

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