
作家の読書道 第226回:酉島伝法さん
2011年に「皆勤の徒」で第2回創元SF短編賞を受賞、造語を駆使した文章と自筆のイラストで作り上げた異形の世界観で読者を圧倒した酉島伝法さん。2013年に作品集『皆勤の徒』、2019年に第一長編『宿借りの星』で日本SF大賞を受賞した酉島さんは、もともとイラストレーター&デザイナー。幼い頃からの読書生活、そして小説を書き始めたきっかけとは? リモートでお話をおうかがいしました。
その2「言葉遊びが好き」 (2/8)
――自分で小説を書き始めた時、挿絵も描いていたんですか。
酉島:ああ、ちょこちょこっと、挿絵みたいなものは描いていました。
――外で遊ぶより、家で文章や絵を描くほうが好きな子供だったのですか。
酉島:どっちも好きでした。外だと、庭を掘って窪地にして、一部に水を溜めて、ビオトープのようなものを作ろうとしていました。ザリガニやミミズや甲虫や蟻を採ってきて棲まわせるんですが、じきにわらわら逃げられてしまう。
――あ、野球とかサッカーとかではなく。
酉島:野球などもしましたがあまり得意ではなくて、穴を掘ったり秘密基地を作ったりするほうが楽しかったですね。家の前が川だったんですけれど、冬になると枯草だらけになるのでそこにトンネル状の秘密基地を作っていました。家と川の間に急斜面の土手があって、遠回りするのが嫌で、一人でスコップで少しずつ段々を掘って、一週間くらいかけて階段を繋げたこともありました。そのうち近所の人たちまで階段を使いはじめたときは嬉しかったですね。
――幼くして地域貢献を。
酉島:数ヶ月後には段々が崩れてなくなってしまいましたけれど。そんなふうに、外で遊ぶ時は、だいたい何かを作っていました。
それと、やっぱり昆虫や小動物は好きでしたね。ハムスターや兎も飼っていましたし。ハムスターはどんどん子供を産むのですが、なかなか貰い手が見つからず、買い取ってくれると聞いてペットショップに売りに行ったんです。1匹30円くらいで本当に買ってくれて。自分で売っておきながら、「なんだろう、生き物を売るっていうのは」と、ショックを受けました。
――へええ。その後、小学校時代に読んで憶えている本はありますか。
酉島:高学年になるとソノラマ文庫を読み始めました。よく憶えているのは光瀬龍『暁はただ銀色』とか、清水義範の『エスパー少年抹殺作戦』とか。その続編の『エスパー少年時空作戦』はタイムトラベルもので、パラドックスに混乱して時系列を箇条書きにして把握してましたね。それと、加納一朗の「是馬・荒馬シリーズ」は大好きでした。これも実家から持ってきた本です(と、モニター越しに本を数冊見せる)。
――すごくきれいに本をとってあるんですね。『イチコロ島SOS』、『半透明人間の逆襲』、『踊るエレベーターの謎』......
酉島:半透明人間とか人工生命体とかが出てくる、兄弟もののSF風ドタバタ小説です。「ひげ中顔だらけ」みたいな言葉遊びも面白くて。敵から電話がかかってきてどうやって逆探知するのかと思ったら、電線を辿っていくんですね。途中で電線が分かれたら棒を立ててどっちに倒れるかで決めて、それで本当に敵のアジトに着いてしまうという。馬鹿馬鹿しいんだけれど独自の屁理屈があるところが好きでした。三十作近くあるので、近所の幼馴染みと別々に買って貸し合っていました。それが小学校4、5年生の頃ですね。
――小さい頃から、「ひげ中顔だらけ」のような言葉とか表現とかに敏感でした?
酉島:敏感でした。僕、喋りが上手じゃなくて、よく言い間違いをする子やったんですね。未だにそうですが。よく憶えているのは、父親に「そうこうばんがとれたねん」と言ったときのことです。
――そうこうばん?
酉島:「絆創膏」と言ったつもりだったんです。父親には「装甲板いうたら、戦車とかについているやつやないかい」とからかわれましたが、言葉ってちょっと変えるだけで全然違う意味になるんだと知って、なにかを発見したような感動を覚えました。
そうそう、思い出しました。小学校の高学年だったか、言葉遊びだらけのでたらめな事典を作ってました。ネットに載せている「棺詰工場のシーラカンス」という、注釈を注釈で繋いだ小説があるんですけれど、その原型ですね。例えば「紫外線」の語呂合わせで「市外線」という目に見えない路線の項目があったり。「棺詰工場のシーラカンス」では「視外線」として使っています。すっかり忘れていましたが、やっていることの変わらなさにいまちょっと呆れました。
――その頃は将来、ものを書く人になりたいと思ったりはしなかったんですか。
酉島:不思議と小説家になるという発想は浮かばなかったです。漫画家には憧れたけれど、1コマにこだわりすぎてなかなか次に進められず、今まで完成させられたことがないんです。イラストなら1枚で終わるので大丈夫なんですけど。
――漫画は、手塚治虫さんや楳図かずおさんの他に何を読まれていたんでしょうか。
酉島:大友克洋の『AKIRA』とか『童夢』とか。諸星大二郎の『妖怪ハンター』などの作品の数々には、かなり影響を受けています。星野之宣の『2001夜物語』とか、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の影響も大きいです。漫画でもSF系が多いですね。板橋しゅうほうもよく読みました。『アイ・シティ』『凱羅』『セブンブリッジ』など。 あとは士郎正宗全般ですね。
――テレビの影響はなにか受けていますか。
酉島:いろいろあると思いますが、海外SFドラマなどは結構見ていました。これは言ってもなかなか知っている人がいないんですけれど、「透明人間ジェミニマン」っていうドラマがあったんです。事故の影響で透明になってしまったエージェントが、それを制御するデジタル時計を腕にはめて、危機に直面するとボタンを押し、15分間だけ透明になって切り抜ける。すごくスマートで好きでした。あとは「宇宙空母ギャラクティカ」「サンダーバード」「謎の円盤UFO」「バイオニック・ジェミー」「超人ハルク」なども見ていました。
――酉島さんって、小学生時代に「機動戦士ガンダム」が大流行した世代ではないですか。
酉島:ずばりその世代でした。ガンプラブームだったので、朝5時に起きて模型店に行くんですけど、すっごい行列ができている。ガンキャノンが欲しかったのに、自分の番が来た時にはガンタンクしか残っていない。当時はその格好よさに気づいてなかったので、ただただ悲しい気持ちに。父親は「ガンダム買って来たぞー」って、パチモンのプラモを買ってくるし。
アニメだと、サンライズ系はかなり見ていました。富野由悠季って毎回一から新しい世界を提示してくれるじゃないですか。ガンダムの次は「伝説巨神イデオン」という異星人との星間戦争ものになって、いろいろと衝撃を受けました。異星人のバッフ・クランが、自分たちの星を「地球」と言い、地球人のことは「ロゴ・ダウの異星人」と呼ぶんですよ。異星人も向こうの主観では地球人だという、言われてみれば当たり前のことにはっとさせられました。
――「ノストラダムスの大予言」の大流行を少年時代に経験した世代でもありますよね。1999年に世界は終わると言われていましたが。
酉島:わりとオカルトっぽいものも好きで「月刊ムー」もよく読んでいたし、僕、本当に1999年に死ぬんだって思ってました。僕だけでなく、楽しいことは今のうちにしておかなければいけないという、生き急ぐような空気があったと思います。まあ今、全然生きていますけど。終末への恐怖だけではくくれない、不思議な感覚がありましたよね。
子供の頃は本当に信じやすくて。「ムー」だったかに天井から紐を吊って手にかけて鉛筆を持てば霊が降りてきて自動筆記できる、と書かれていて、その通りに鉛筆持ったまま1時間くらいじーっとしていたことがありました。なんっにも書かれず、うなだれました。
――1時間も。家族に見つからなかったんですか。
酉島:家族がいない時でした。この間もエッセイに書いたんですけれど、家で本を読みたいばかりに、水銀の体温計をわーっとこすって38度にして、学校をよく休んでいました。たまにこすりすぎて39度くらいになり、振って戻そうとしたら割れて水銀の玉が散らばったりして。
親は意外に騙されてくれていたんですが、繰り返しているうちにとうとう、どこも悪くないのに検査入院させられました。父親が警察官だったので、警察病院だったのも恐ろしくて。検査でも怖い思いをしましたが、極め付きはクラスのみんなが折った千羽鶴が贈られてきて、ものすごい罪悪感で倒れそうになりました。
――今おっしゃった38度とか千羽鶴とか、すごく新作の『るん(笑)』の内容を想起させますね。
酉島:ええ、そうなんですよ。わりと自分の体験を足場にして想像を広げることが多いというか。『るん(笑)』の「三十八度通り」なんかはわりとそのまま書いたエピソードも多いんです。結婚式でいきなりミラーボールが回っていたのも、実際に結婚式場でアルバイトしていたときの出来事で。意外にも気づかれないまま、最後までずーっと回り続けてました。
――ところで、作文は得意でしたか。
酉島:わりと得意でした。誰でも考えそうなことですけれど、「何を書いたらいいか分からない」ことだけを書いた作文が学校文集に載って、「是馬・荒馬」を貸し合った年下の幼馴染みも、面白いなー、と言ってくれたんですが、何年か後に妹の文集を読んでいたら、その幼馴染みが書いたほとんど同じ作文が選ばれていて笑いました。
――科目のなかでは何が好きだったんですか。
酉島:なんだろう。やっぱり図画工作や美術が好きでした。