作家の読書道 第272回:野﨑まどさん

2009年に『[映]アムリタ』で電撃文庫賞のメディアワークス文庫賞の最初の受賞者となりデビュー、その後『Know』が日本SF大賞や大学読書人大賞にノミネートされるなど注目される野﨑まどさん。「キノベス2025」第3位にランクインした新作『小説』は、本を読むことをテーマとした長篇小説。読者の心に光をもたらす作品を書いた著者は、どんな読者なのか。その読書遍歴や小説家となった経緯などをおうかがいしました。

その1「文字の本を敬遠していた小学生時代」 (1/6)

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――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

野﨑:いちばん古いとなるとたぶんすごく小さい頃になりますが、字の本の記憶があんまりなくて。漫画を読んだのが最初じゃないかと思うんですよね。自分で選んだものではなくてたまたま実家の本棚にあったどれかです。『じゃりン子チエ』といった、親の年代で中央値になるような漫画だと思います。
親が「ビッグコミックオリジナル」とか「モーニング」といった漫画雑誌を読んでいたので、そういう系統の漫画が多かったと思います。黒鉄ヒロシさんの『赤兵衛』とか。あと、こういう話をするのは恐縮なんですけれど、実家の本棚にずっとあって今も憶えているのが競走馬のコメディ漫画で、ものすごく脚の短いサラブレッドが主役なんですが、ひたすらスケベな内容で、タイトルも『駄馬コマンコスキー』という。まだ小さいので単語が卑猥だっていうことが汲み取れなかったんですよね。学校で「『駄馬コマンコスキー』面白いよ」とか言っちゃって友達の親から注意を受ける、みたいなことがあったので忘れられなくなった漫画です。

――(笑)。野﨑さんの親御さん、相当漫画がお好きだったんですか。

野﨑:うちは父親が早い段階からいなくなって母親に育てられたんですけれど、その母がひたすら漫画を読む人間だったんです。買っては捨てて、買っては捨ててで、量だけはありました。置いてある漫画を子供が読んでも気にしなくて、勝手に読んでいいよという感じでした。自分もまだ他に趣味もない年齢でしたので、自宅の漫画を勝手に吸収していきました。『ドラえもん』も全部読んだし、手塚治虫もいっぱいあったので読みましたし、『プロレススーパースター列伝』なども読みました。流行っている漫画はなんでもある感じでした。たまに親から「これなら読めるんじゃないか」といって字の本も渡されるんですが、選書した形跡が全然ないんですね。『ビートたけしのみんなゴミだった』を渡されて、それを子供に読ませて一体どうしようと思ったのか、今でも全然分かりません。子供を読書家に育てようとか、そういう意図はなかったと思います。

――一人っ子ですか。

野﨑:はい。一人っ子で、母親が仕事に出ている間は祖父母と一緒に過ごすことが長かったですね。そんなにテレビを見る家でもなく、ゴロゴロして漫画を読んで過ごすことが多かった気がします。

――じゃあ戦隊ものとか「ガンダム」のようなアニメとかはあまり見なかったのでしょうか。

野﨑:自分が生まれた年に「機動戦士ガンダム」が始まったんですよね。なので一応知ってはいるんです。母がアニメーションの彩色、仕上げの仕事をやっていたので、「ガンダム」も沢山塗っていました。家にもセル画が山積みになっていて。それだけ近いと逆に興味もわかないというか。家にあるもの、くらいの感覚でした。小学校高学年くらいからはガンプラを作りましたけれど。

――アニメがそんなに身近な存在だったとは。

野﨑:一家総出で、定年退職した祖父がずっとセル画を作る機械(トレスマシン)を動かしていたりしたので、アニメに育ててもらったようなものです。
アニメの仕上げって、昔は手で絵具を塗っていたのでパートタイム主体の仕事だったんですね。主婦の方が山ほど働いている現場で、一時期100人くらいいたんじゃないかな。その時にひたすら機械に紙と透明のセル画を通し続ける作業があって。苦痛な仕事なんですけれど定年した祖父にはちょうどいいみたいで、朝の5時から夕方の5時までずっと機械をかけ続ける、という感じでたくさんセル画を作っていました。

――小学校に上がってからは、文字の本は読むようになりましたか。

野﨑:そんなに多くはなくて、多少字の多い漫画を読むようになったくらいだと思うんです。漫画ではいしいひさいちさんがすごく好きでした。いしいさんは政治風刺のギャグが多いんですよね。それを読んで「サダム・フセインって誰」と訊いたり、「この人誰」「読売新聞主筆の渡辺さんだよ」と教えてもらったりしていました。いしいさんの風刺漫画にはプロ野球選手が結構出てくるので、スターシステムが分からないと駄目なんだ、などと勉強させられました。いしいさんはものすごくたくさんの4コマ漫画を描かれているので、子供の速度で読んでいると徹夜になっちゃうんですよね。いしいひさいちを読んで徹夜して学校に行く、みたいなことが頻繁にあって、わりと不健康な暮らしをしていました。
いしいさんは今も「小説新潮」に「剽窃新潮」という連載をされていてとても素敵なタイトルだと思います。

――国語の授業は好きでしたか。

野﨑:好きではあったと思うんですけれど、あまり印象には残っていません。教科書に載っているコラムは好きで先に読んじゃうんですけれど、読んだら終わりでそれ以上興味が働かなかったです。理科のほうが好きだった気がします。

――作文や読書感想文は。

野﨑:嫌々書いていた記憶があって。素直な感想を求められているわけではないという採点基準の気配を感じて、それに合わせて書くのは癪だなという気持ちがあったと思います。一応、ある程度その基準に合わせて書いて提出するんですけれど、そこに楽しさを見出すことはなかったです。書かないですむならどんなにいいかと思っていました。
もうタイトルも憶えていないんですが、読書感想文で読まされたのが、捨てられた犬が旅して飼い主の元に戻るという本で、これが全然面白くなくてですね。全然面白くないのに感想文を書かなくてはいけないことが、もうそれ以降字の本が嫌いになるくらい嫌だったんです。なので小学校の頃は本当に、字の本はむしろ避けているくらいの感じでした。小学生時代、字の本は教科書を除いたら10冊も読んでいないと思います。

――図鑑などを眺めたりはしましたか。

野﨑:図鑑は好きでした。学研の本だった気がしますが、家に基本的な図鑑のシリーズが揃っていて一通り読みました。それと、「ひみつ」シリーズが図書室か図書館に30冊も40冊もあって、それを全部読んだ気がします。あれは欄外のコラムまで読みました。それも学研ですよね。学研に育ててもらったような感じですね。
母は勉強を教えてくれたりはしなかったんですけれども、自分が大量に漫画を買うので、子供が本が欲しいといえばなんでも買ってくれたんです。逆にこっちが欲しがらないと何も買ってくれないので、ある程度損得勘定がつくようになると、「何か買ってもらわないともったいない」となって、「図鑑が全部ほしい」という交渉をしたりしていました。

――図鑑の中では何が好きでしたか。動物とか昆虫とか車とか。

野﨑:特別これが好きだ、というものがあんまりなくて。宇宙はちょっと好きだった気がするんですけれど、そこまで宇宙ばっかり読んでいたかというとそうでもないなという。まだ好みの傾向ができている時期ではなかったので、平均的にさらっただけでした。
宇宙といえば、5、6歳の頃に赤塚不二夫さんが書いた『ニャロメのおもしろ宇宙論』を繰り返し読んだ気がします。半分漫画、半分文字みたいな本で、ブラックホールに近づくと人間はスパゲッティになる、などとニャロメがスパゲッティ化現象について説明してくれたりして。あれは単純に面白かったし、入門として充分な本でした。それがわりと宇宙好きになった入口だったかもしれないです。その頃からはもう理論も結構変わっていると思うんですけれど。

――小学校の頃、はまったものや打ち込んだことはあまりなかったのでしょうか。

野﨑:何かにはまって打ち込んだことが結構少ない人生だなと思います。飽き症というのが大前提にあって、ひとつのことを長くできないタイプなんです。だから広く浅くいろいろ触れていて、ゲームやミニ四駆といった趣味も一通りやりましたが、どれも続かない状態でした。それは今も変わらないです。何かやってみてある程度楽しんだら次、みたいなところは子供の頃からです。

――放課後は、外で遊ぶよりも家で漫画を読んでいることが多かったですか。

野﨑:運動神経は全然ないほうで、スポーツはやるのも見るのも好きじゃなかったんです。背も低くて駆けっこも遅いほうのグループだったので、身体を使う遊びは基本的に全部嫌いでした。だから自然と趣味はインドアのものになりましたね。年代が上がるとサッカーも好きになったんですが、プレイするのではなく見る専門でした。

――図書室や図書館、書店はよく利用していましたか。

野﨑:学校の図書室にはよく行っていて、図書館に通うようになるのは中学生になってからかな。本屋は、親がいくらでも買ってくれるので家からいちばん近い書店に入り浸っていました。「本買いに行ってくる」というと親が何の本かも聞かずに1000円くらいくれるので、それで「こち亀」を買ったりして。近所の本屋で好きな本を自由に買えるという、豊かな小学生時代を過ごしました。

――振り返ってみて、どういう子供だったと思いますか。

野﨑:内向的といえば内向的で、社会性は低かったので友達の人数も少なくて、1人か2人の友達と延々遊んでいました。友達がいない時はずっと1人で遊ぶという感じで。
親が奔放なので距離を測りながら暮らしていて、ものを買ってもらうにしても交渉の仕方を考えるような子供でした。小賢しい感じではありました。
何か特筆して優秀な分野があるでもなく、勉強がめちゃくちゃ得意ということもなく、塾も通っていなかったですし、習い事もひとつもやっていなくて、"どノーマル"な状態でいたんじゃないかなと思います。

――自分で漫画を落書きしたり、物語を空想したりはしていましたか。

野﨑:一切やっていません。本当に読むだけでした。絵をちょっと描いてみたことはあるんですけれど下手でしたし、飽き症なので続かないんです。もうちょっと後になって趣味で絵を描くようになった時期もありましたが、小学生の頃は落書きにしても5回か6回描いたことがあるだけという程度でした。

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