
作家の読書道 第272回:野﨑まどさん
2009年に『[映]アムリタ』で電撃文庫賞のメディアワークス文庫賞の最初の受賞者となりデビュー、その後『Know』が日本SF大賞や大学読書人大賞にノミネートされるなど注目される野﨑まどさん。「キノベス2025」第3位にランクインした新作『小説』は、本を読むことをテーマとした長篇小説。読者の心に光をもたらす作品を書いた著者は、どんな読者なのか。その読書遍歴や小説家となった経緯などをおうかがいしました。
その2「高校受験直前の読書」 (2/6)
――中学校は地元の学校に進んだのですか。
野﨑:はい。親も教育熱心でなく、特に中学受験することもなかったです。中学生の頃も本当に字の本は読んでいなかったです。ようやく字の本に対するある種のアレルギーみたいなものは抜けてきたとは思いますが、どうしても読書は面白さを味わうためには腰を据える必要があるスローリーな娯楽という認識で、ゲームみたいな早く刺激を味わえるものがあるとそっちをやってしまう、子供らしい子供ではありました。
中学生の頃は周りにゲームをやっている子が多くて、自分もその流れに乗っていました。ファミコンからスーパーファミコンになるくらいの時期で、「ファイナルファンタジー」の「Ⅴ」「Ⅵ」とか、世に言う格ゲー、格闘ゲームをみんなでやっていました。「ストリートファイター2」とか「餓狼伝説」とか。強くないと長くプレイできないので、ゲームが強いか弱いかで立ち位置が決まる社会が存在していました。
近所にレンタルビデオ屋があって、そこにゲームセンターの筐体が一台だけあったんです。ワンプレイ50円なんですけれど、店員の兄ちゃんの機嫌がいいとタダでやらせてくれたので、そこを楽園として子供たちが30人くらい集まっていました。それが中学生の頃の思い出という...。だから「餓狼伝説」の攻略本なんかは熱心に読んでいました。
――部活は何かやっていましたか。
野﨑:電気工作部という、はんだ付けとかをして何か作ってみようという部活があって、入ってみたら綺麗に全員幽霊部員でした。誰にも会わないので僕も行かなくていいのかなと思って2年くらい行っていなかったら、顧問の先生に泣きながら怒られて「どうして君たちは一回も来ないんだ」と言われてしまいました。それで最後の年にみんなで協力してスピーカーを作りました。それが最初で最後の思い出で、部活動に関しては帰宅部とだいたい同じでした。
――ああ、でもやっぱり電気工作みたいなものには興味があったんですね。
野﨑:文系より理系のほうが合っていました。運動部は最初から選択肢になかったですし、なるべくアクティブでないものを選ぶとどうしてもそっちになりました。
――その頃ってなにか将来なりたいものとかありましたか。
野﨑:あまりなくて。小学生の頃に親がアニメの彩色の会社を辞めてしまって、その後結構職を転々としたんです。お好み焼き屋を開いたり、仕出し弁当をやったりとか。それを近くで見ていたので、自分はもうちょっと堅い仕事に就きたいなという気持ちがありました。本人はすごく楽しそうなんですけれど、子供からすると不安定さしか見えなくて、いつ親が無職になるんだろうと思いながら過ごしていました。
――お母さん、ひとつ立ち上げるだけでも大変なのに、いろいろやられていたんですねえ。
野﨑:凝ったプランを練って立ち上げるわけでもないので、どれも2年もすると潰しちゃうんですよね。なので、自分が飽き症なのは遺伝だなと思います。
余談ですが、親が仕出し弁当の仕事を始めた頃、お昼になると契約しているところにお弁当を届けに行くのを手伝ったりもしたんです。昔の伝手でいろんなアニメスタジオにお弁当を届けていて、当時のスタジオジブリなんかにも行きました。
――へええ。野﨑さんは東京の墨田区のご出身ですが、お好み焼き屋はどこに店舗があったのですか。放課後にお店に行ったりしていたのかなと思って...。
野﨑:店は練馬区の大泉学園で開いていました。大泉学園近辺にはアニメーションのスタジオがいっぱいあったので。知り合いが多いところでやろうという算段だったんだと思います。その店は3年くらい続いたのかな。友達の奥さんと協力して開いて、結局最後はその人にお店譲ったんだったと思います。
中学生時代の話をしようとすると、僕は並みの中学生としてしか生活していなかったので、親の面白話ばっかりになってしまいます。
――確かに、お母さんに興味津々です。
野﨑:いまも元気にしています。
――野﨑さんの新作『小説』では、主人公の内海修司君が12歳の時に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の貸し借りをきっかけに外崎真という読書仲間を得ます。野﨑さんが『竜馬がゆく』を読んだのはいつ頃だったのですか。
野﨑:中学3年生になってからですかね。『竜馬がゆく』をよく憶えているのは、自分の身に起こったこととリンクしているからですね。高校受験の直前で、いい加減勉強しなくちゃいけないのに『竜馬がゆく』を読み始めて勉強が手につかなくなっちゃったんですよね。それでもラストスパートしなければという頃に、事業を転々とする母に対して祖父が「もうちょっと真面目に生きないか」とガチギレしたことがあって。母は「私の稼ぎで食べてるのに何言ってんの」みたいな感じで、家の中で大喧嘩を始めたんです。それが受験の2日前くらいでした。そのなかで僕は『竜馬がゆく』を読んでいたというのが、司馬遼太郎との思い出です。なんとか受かったからよかったですけれど。
――そういう家族の揉め事も、冷静に眺めている子供だったのですか。
野﨑:みんな自由に生きればいいじゃないかと思っていました。祖父と母はしょっちゅう喧嘩していたんですけれど、二人とも江戸っ子なので、いまいち陰湿さがないんですよ。宵越しの銭は持たねえぜみたいなもので、翌々日にはすっかり忘れている感じでした。だから非常に建設的でないというか、物事がまったく前に進んでいかないんです。それもあって自分は堅い仕事につきたいなと思っていたんですけれど、今こういうことになっています。