
作家の読書道 第277回:矢樹純さん
漫画原作者として活動するなか、2012年に『Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件』で小説家デビュー、19年に短篇集『夫の骨』が話題となり、翌年その表題作で日本推理作家協会賞短編部門を受賞した矢樹純さん。ホラー、ミステリ、サスペンスで読者を震撼させる作家は、どのような読書生活を送ってきたのか。デビュー後、ブレイクまでの道のりも含めてたっぷりお話うかがいました。
その4「大学生生活、漫画原作デビュー」 (4/6)
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- 『クロサギ(1) (ヤングサンデーコミックス)』
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――大学の専攻はどのように選ばれたのですか。
矢樹:親に県内の大学にしてと言われたので、ほぼ選択肢がなくて。文系の学部というと人文学部か経済学部しかなくて、経済にはそれほど興味がなかったので人文学部にしました。何かを学びたいというよりは、興味のないことを学ばないために人文学部に行った感じです。一応、倫理学のコースを専攻して、卒業論文は脳死や尊厳死について書きました。
はじめは青森の実家から弘前の大学に1時間半かけて通っていたのですが、親が一人暮らしさせてくれるというので、1年生の夏休みから一人暮らしも始めました。
基本、大学では麻雀をしていました(笑)。あとは、フォルクローレという民族音楽のサークルに入ったんです。中南米の音楽で、「コンドルは飛んでいく」が有名ですね。当時のおじさんおばさん世代に人気だったジャンルなので、大学のバンドなんですけれど営業が多かったですね。ライオンズクラブみたいなところに呼ばれていっては、結構な額のギャラをいただいていました。
――楽器はなにを担当されていたのですか。
矢樹:チャランゴといって、スペイン人が南米に持ち込んだギターの前身の楽器を真似て、アルマジロの甲羅で作られた複弦の楽器です。アルマジロは高いので、私が持っていたのは木製です。夫とはそのサークルで知り合ったのですが、夫はアルマジロ派でした。
サークルでその活動をして、研究室では麻雀をして。本も読んでいました。この頃に島田荘司先生の『占星術殺人事件』を読んで、はじめて自分でミステリ小説を書こうとしたんですよ。プロットも作らずいきなり書き始めて、頑張って数行書いて「ふうーっ(溜息)」となって終わりました(笑)。
――相変わらず読書は新本格が多かったのですか。
矢樹:そうですね。他には、麻雀の漫画雑誌を(笑)。「近代麻雀ゴールド」など、いろいろ出ている麻雀漫画雑誌を全部読んでいました。「スピリッツ」や「ヤングサンデー」も含めて、研究室のみんなでかわるがわる買っていたと思います。このあたりで西原理恵子先生の『まあじゃんほうろうき』を読み、西原先生にはまりました。他にも麻雀漫画は面白いものがたくさんありましたね。片山まさゆき先生の漫画もよく読んでいました。
――麻雀がお好きな小説家って多いですよね。それこそ綾辻行人さんとか。
矢樹:そうなんですよ。大好きな綾辻先生が大好きな西原先生と一緒に麻雀を打っていると知った時は嬉しくて。完璧だと思いましたね。自分はもう、今は打てる環境にはいないんです。家に麻雀牌もマットもあるんですけれど、相手がいなくて。
――お強いのですか。
矢樹:いや、本当に強くないし、何も考えずに打っているだけでした。点数計算も誰かに任せていましたし。でも好きだから、誘われたら一切断らなかったんです。
――卒業後はどうしようと考えていたのですか。
矢樹:残念なことに就職氷河期だったんです。本に関わる仕事がしたいとはふわっと思っていたんですけれど、何も努力をしてこなかったので、「まあ無理だな」と思っていました。就活して出版社に行くというのはすごく遠い世界でした。とにかくどこかに就職しなきゃということで、採用人数が多いから流通ならもぐりこめるだろうと。流通に絞って就活して採用されて、寝具インテリア売り場に配属になって大量の布団を積んだり、スチールラックの見本を組み立てたり、力仕事をしていました。
それで激務でヘロヘロになって、結婚して仕事を辞めることになったんです。夫が横浜で働いていたので、私も横浜で別の仕事を探そうとしていたタイミングで、真ん中の妹が就職をしないで漫画家になる宣言をしたんです。「そっか」と思っていたら、「お姉ちゃんが原作を作って」って。妹も大学卒業後に東京に来たので、それで妹と第1作を作って「スピリッツ」に投稿したら、その1作目で担当さんがついてくれたんです。いきなり担当がつくなんて、これはいけるぞ、となりました。そこから連載を持てるまでが長かったんですけれど、私も妹も「自分たち才能があるかも」と思ってしまったんですよね。
――妹さんは昔から漫画を描かれていたのですか。
矢樹:妹は中学で美術部に入っていたので、そこで漫画を描くことに触れたのかもしれません。でも、高校では柔道部にいたし、大学も中国の文学だったか歴史だったかを学んでいたので、漫画家になりそうな感じではなかったです。大学4年の時に急に就職しないで漫画家になるって言いだしたんですよ。私は妹よりは堅実な人間だったので、通信教育で校正者の資格を取って、求人誌の校正のアルバイトをしながらコンビ漫画家を目指していました。
――原作を作ってくれと言われて、すんなりアイデアは浮かんだのですか。
矢樹:最初はギャグ漫画だったんです。とにかく面白いことを考えればよかったんですけれど、一人目の子供を産んだあたりから、自分にはギャグの才能がないなと気づき始めて。それでストーリー漫画に転向しました。
ストーリーはどうやって考えていたんだろう...。1作目はSFファンタジーみたいな不思議な話を書いたんですよね。私は「ガロ」系の漫画がすごく好きだったので、それらしいものを頑張って書いていました。でも読み切り1本なら載るんですけれど連載まではいかなくて。その頃は加藤山羊という共同ペンネームで漫画を作っていたんですが、編集さんに「加藤さんが作る話はすごく小説的なんですよね」って言われました。駄目出しされていることは分かるんですけれど、そもそも本格ミステリ以外の小説をあまり読んでいないので、小説的と言われても「なにが?」と思うくらい言葉の意味が響いてきませんでした。それで、「どういうものを書いたらいいんですか」と訊いたんです。作者がそんなことを訊くなんて呆れられてもおかしくないけれど、編集さんも優しくて、「うちで求めているのはとにかくドラマ化や映画化されるような話です」って。私は「ガロ」系の漫画が描きたかったので、若干ふてくされながら「じゃあそういうものをやります」と言って描いたもので連載をとりました。
――それが『イノセントブローカー』なんですね。
矢樹:そうです。たぶんジャンルとしてはクライムサスペンスになると思うんですけれど、裏社会もので、売りたいものを持ち込んできた客と買ってくれる相手をマッチングするブローカーの男が主人公の話です。
――裏社会とかブローカーといった題材はもともと関心があったのですか。
矢樹:いやあ...。この頃は「実話ナックルズ」とかを読んでいたので、自分の思考が裏社会に向いていたのかもしれません(笑)。デビュー前に投稿していたのも青年誌でしたし、もともと裏社会のことを描いた漫画も昔から読んでいましたし。
――その頃、小説もいろいろ読まれていましたか。
矢樹:新本格をずっと読んでいたなかで、三津田信三先生の小説と出合ったのが小説を書こうと思ったきっかけなんです。
漫画は増刊でしか連載をさせてもらえない状況で本誌を目指していた頃に「ヤングサンデー」が休刊になって、そこで描いていた作家さんが「スピリッツ」に流れてきたんです。それこそ裏社会ものの『クロザキ』とかがこっちに来たので、自分たちが裏社会ものを描くのはもう無理だなと思いました。そういうタイミングの時に三津田信三先生の作品を読み、自分もこういう小説が書きたいと思ったんです。作家三部作と言われている『忌館 ホラー作家の棲む家』、『作者不詳 ミステリ作家の読む本』、『蛇棺葬』と『百蛇堂 怪談作家の語る話』を読んで、ホラーであり優れたミステリでもあるということにかなり衝撃を受けました。
漫画の仕事では先に進めないかもしれないと思いはじめていたので、そこで別の道に挑戦してみようと、はじめて先にプロットを考えて小説を書いたんです。漫画原作でプロットを先に作ることは学んでいましたから。今回は数行で終わることなく、コツコツコツコツ書いて長篇を仕上げました。それをメフィスト賞に送ったら、落ちたんですけれど「中盤から残念な感じになっている」みたいなアドバイスをいただいたんです。それで中盤以降を書き直して『このミステリーがすごい!』大賞に送ったら、「隠し玉」として刊行されることになりました。