『玄鳥さりて』葉室麟

●今回の書評担当者●ときわ書房千城台店 片山恭子

 この作品は、純愛と、そして自由とは何かを描いた小説だ──。

 小説は、読んだ人の数だけ解釈がある自由なものだというごく当たり前のことを、本書を読み改めて思いました。

 組織に雁字搦めにされ身動き出来ないと感じるある人にとっては、その呪縛から自由になるための選択肢の一つが書かれているように感じるかもしれないし、学校や会社、あるいは家庭にも身の置き所のない孤独を感じている人にとっては、光が射すような思いをこの作品の中に見出すかもしれない。あらゆる差別と戦う人にとっても、またそのことに無自覚な人にとっても、人の思いの深さを前に差別の無意味さに気づかされるかもしれません。

『玄鳥さりて』は、「小説新潮」で2016年7月号から翌3月号にかけて連載されました。玄鳥とは燕のことを言います。

 舞台は、『おもかげ橋』に登場した蓮乗寺藩四万石。三浦圭吾(家格は百五十石)と年上の樋口六郎兵衛(同・三十石)は林崎夢想流の道場の先輩後輩の関係。三尺三寸(約一メートル)の長剣を用い、練達するとツバメが飛ぶように刀を振るうことができるようになるという流派で、剣技では遥か上のレベルにある六郎兵衛が、当時は元服前で初心者の圭吾を稽古相手に選んだことから、道場では圭吾が六郎兵衛の稚児だ、衆道だと噂が流れます。

 圭吾が十九になったとき、城下きっての富商・津島屋に強盗が入り、銀子を奪ったうえ主の津島屋伝右衛門の一人娘、美津が連れ去られるという事件が起き、道場の門人たちと月見の途次に居合わせた六郎兵衛と圭吾は助力を申し出、美津を無事に救い出せた六郎兵衛が、美津を助けたのは圭吾だということにして欲しいと持ち掛けます──。

 見目清々しい真っすぐな気性のエリートと、腕の立つ剣士でありながら世渡り下手で風采の上がらぬ不運な下級武士という対照的な二人。権力に興味のない圭吾が、いつしか派閥争に巻き込まれ、保身のために権勢欲が身のうちに起き上がってきます。

 一方でそうしたことと無縁でありたいと望むのに、人より優れた剣技を持っているだけで争いに巻き込まれてしまう六郎兵衛ですが、不器用でも人としての矜持を持ち続けるその存在は輝いて見えます。そんな六郎兵衛の心が「別のところにある、あなたはいまもどこかへ飛び立っていきたいと思っている、飛ぼうとしてもがく翼のざわめきがわたしには聞こえる」とは妻の千佳が亡くなる前に言ったセリフですが、この作品を象徴するかのようなこの言葉は、この先訪れる運命の暗示のようでもあり、出奔、遠島の続く彼の境遇は、同じ場所に巣を作る習性をもつ燕の姿に重なります。

吾が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし

(とても親しいあなたと二人でいるので、高い山が遮って月がこの里を照らさなくとも構わない)

 この歌にまつわる六郎兵衛の過去が語られる十三章では、圭吾への献身の理由も含め、それまでの伏線がつながると同時に、押し込み強盗事件がきっかけで圭吾と夫婦になった美津と六郎兵衛の、第十章での会話が思い起こされます。妻の立場から夫の保身のため六郎兵衛の純粋な思いをも利用しようとする狡い女だと自らを言い切る美津の潔さ。ひとの優しさとは本来こういうものだと感じられる、とても美しい場面です。

 文字数が尽きそうなので省略しますが、現代のネット炎上を彷彿させる場面もあります。不埒ものを成敗し、藩の面目を守った六郎兵衛を労うどころか不快感をあらわにする藩主と、藩内無双の剣士であるのに疎まれる樋口六郎兵衛の人生に、藤沢周平の『玄鳥』に登場する曽根兵六を思い浮かべました。イエスマンしか近づけない狭量な暗君の姿は、言論統制を敷き、次々と側近を更迭するどこかの元首を連想させ、不幸な藩にうまれた武士の悲運を浮き立たせます。政治に向かない圭吾は結局、六郎兵衛との斬り合いを命じられ窮地に追い込まれますが、クライマックスの浅木河畔での決闘の最中「武士には殿に命じられたほかの生き方がない

 という圭吾に対し、思いもかけない一言が六郎兵衛から放たれます。まさに目から鱗が落ちる思いでした。

 純愛をテーマだと解釈した理由について全く触れずに来ましたが、全編を貫く肝の部分に当たるため、あえて触れぬままにすることをお許しいただきたいと思います。

 この作品を読みながら、あるひとつの標語が頭に浮かびました。

「川の汚れは心の濁り」──北九州市小倉を流れる紫川の傍に立てられていました。子どもの頃の記憶なので、ひらがな表記だったのかもしれませんし、地区限定の標語ではない可能性もあります。もしかしたらこの立札を葉室さんもご覧になっていたのだろうか、と想像することがあります。私の中でこれとリンクして思い出す『銀漢の賦』での千鶴(主人公・小弥太の母)の言葉があります。

「花の美しさは形にありますが、人の美しさは覚悟と心映えではないでしょうか」。葉室作品に共通する精神ではないかと思います。

 葉室麟さんは『銀漢の賦』で松本清張賞を受賞され、清張さんと同じ小倉出身ということもあり以来応援し続けていました。当店にも新作を心待ちにしているファンが多く、直木賞を受賞されたときはお客様と一緒にその知らせを喜びました。売れっ子作家にふさわしく、複数の連載、超がつくほどハイペースでの新刊発売に、ファンとしてはその健康が心配になるほどでした。その博学、博識と視点、人柄のにじむ味わい深く美しい文章が堪能できるエッセイも、とても好きです。

 近著を読むと、まだまだお書きになりたいことがたくさんあったのだろうと推察します。書かれるはずだった作品をこの先読むことが出来ないという悲しさ、そしてこれまで作品を通じて数えきれないほど多くの感動を下さったことに対する感謝を伝えられなかった悔いが去来します。しかし発表された数々の作品たちはこれからも長く、多くの人に読み継がれてゆくと確信しています。

 葉室麟さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

 一年間、拙文を書かせていただき、誠にありがとうございました。読書がいつまでも多くの人の心に寄り添うひとつであり続けることを願います。

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ときわ書房千城台店 片山恭子
1971年小倉生まれの岸和田育ち。初めて覚えた小倉百人一首は紫式部だが、学生時代に枕草子の講義にハマり清少納言贔屓に。転職・放浪で落ち着かない20代の終わり頃、同社に拾われる。瑞江店、本八幡店を経て3店舗め。特技は絶対音感(役に立ちません)。中山可穂、吉野朔実を偏愛。馬が好き。