『小さな倫理学入門』山内志朗

●今回の書評担当者●蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里

  • 小さな倫理学入門 (慶應義塾大学三田哲学会叢書 ars incognita)
  • 『小さな倫理学入門 (慶應義塾大学三田哲学会叢書 ars incognita)』
    山内 志朗
    慶應義塾大学出版会
    756円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

〈倫理〉。小学生向けの辞書にも〈倫理〉は掲載されています。『三省堂例解小学国語辞典 第三版』をひくと、"人間として守るべき正しい道"と、ありました。

 清水書院の『倫理資料集』のはしがき〈倫理を学ぶこと〉によると、"倫理とは人間としてあるべき生き方のことで、先哲(古今東西の思想家、宗教家、文学者、芸術家たち)が示した人生観・世界観・人間性や社会の特色を学び考える" ことだと。

 そして、"かたく聞こえるかもしれないが、難しいことではない。どんな人間になりたいか、何にあこがれ、何をめざすか、誰を友とし、誰を愛するか、それを考えることなのである。"と結ばれています。

──どんな人間になりたいのか。
──何にあこがれ、何をめざすのか。

 本書『小さな倫理学入門』は、人文の分厚い書籍がたくさんある書店の棚のなか、100ページほどの新書サイズという、あれ?と思う大きさで、小さなお花のように倫理学の書籍のなかに佇んでいました。手にとり、ぱらぱらと後書きを読み、そのままレジへ向かいました。

 著者・山内志朗さんは後書きで、"倫理学が傷つけないことを目指すものであることを示すために書いたのですが、書いた本人は傷だらけで、読む人にもいばらだらけの本になってしまったかもしれません。人生はいつだって傷だらけです。ご容赦ください。"と記していました。

"人生はいつだって傷だらけ"だ、という結論からはじまる倫理学の入り口の書籍が、この書籍を手にする人に向かって開かれていないわけがない、と思ったのです。"人生は、夢だらけ"と流れていた生命保険のCMよりも、こちらにぐっとくる40代なのでした。

 書籍はその日の夜にみるみる付箋だらけになりました。

"過去の記憶は、捨てた方がよいものでも持ち主を苦しめながら残り続けるのは、未来のためなのです。事柄としては、未来が過去の記憶を統御すべきです。"  

"怒りの非合理性を合理的思考が制御することは困難です。(中略)病気による高熱を乗り切るのにただ時間が必要なときと同じように。祈りであれ呪文であれ、それは時間を誰かからいただくことなのです。"

"一枚一枚の棚田に満月が映るように、一つ一つの溜息には名号が宿り、一粒一粒の涙は光が宿っています。泣いて悲しんでいても生きているのはよいこと、理由もなくよいことなのです。"

 こころに満月が浮かびます。
 専門の言葉を多用して分厚い書籍にできたであろう内容を、文字を制限し、入門書として読む読者が言葉につっかからないよう、ことり、とはいりやすい文章。そして文章はさくりさくりと心地よいリズム。いつどのページを開いても、そこに広がる光景は様々な行先を見せてくれます。

 そのときの自分によって、そびえる山へも、深い水の中へも、散歩道でも、走っても、歩いても、とどまっても、この本が一緒に倫理学への道を伴走してくれます。無理やり背中を押すことも、手を離すことも、そして手をつなぐこともしません。

 一般的に浸透している、人間として正しい道、正しい生き方を倫理学から学んでいくのではなく、過ちやすきものとして人間を捉え、普通の日常から倫理のタネを考えましょう、とはじまる本書。

 その通り、様々な日常の領域から倫理に関するいろいろな例や考え方をさらりと提示して、身近な例からそれらをくるくると輪っかのリングのようにつなげていきます。関連書籍へもつながるようにわかりやすく20の章にわかれている本書。シュミットやギリガン、ドゥルーズにカイヨワなど先哲の書籍へと視線を導いてくれます。

 柔軟な文体は、すとん、すとん、と言葉の積み木が心に降って落ちてくるよう。言葉は静かに積まれていき、積みあがったそのかたちはこちらの心情で有機的に変化していくような、そんな文体にすっかり魅せられました。

"倫理学は、「考える」ことと同じ程度に、いやそれ以上に「感じる」ことを基礎とします。そして、この「感じる」ことは、そのつどそのつどの感覚的なものにとどまらず、反復と練習によって身についた「感情」によって能動的に感じられることを含みます。(中略)感情もまた能力なのです。"

 負ったこの傷もいつか傷ではなく力となり定着し、それを繰り返し、繰り返し、わたしはわたしを持する能力を得たことを確信してから、いつか死ねるのだろうか。死ぬ間際にもきっと、こんな人になりたい、あんな人になりたい、と、あこがれに埋もれたまま死んでいくのだろう。でもわたしはまだまだ入門書の入り口にいれてもらったばかり。人間として守るべき正しい道も、正しくない道も、いばらだらけの道も、山内志朗さんのこの本を手に持ち、連れていってもらおう。
 人生はいつだって傷だらけだ!

« 前のページ | 次のページ »

蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
蔦屋書店ひたちなか店 坂井絵里
1971年東京生まれ。学生の頃は本屋さんは有隣堂と久美堂が。古本屋さんは町田の高原書店と今はなきりら書店がお気に入りでした。子どもも立派なマンガ好きに育ち、現在の枕元本は、有間しのぶさんに入江喜和さん、イムリにキングダムに耳かきお蝶・・とほくほく。夫のここ数年の口ぐせは、「リビングと階段には本を置かないって約束したよね?」「古本屋開くの?」「ゴリラって血液型、B型なんだって」 B型です。