第1回 脱走兵

「深夜の古本屋」。

 これが僕の店を表す惹句だろう。世にも珍しい深夜にだけ開く古本屋なんて言われたりする。けれど、珍しいこともない。東京であれば、それなりに深夜に営業している本屋さんはあったりする。それに僕の店は土日であれば日中に営業している。品揃えがこれといって特化している訳でもなく、ごくありふれた町の古本屋であるように心がけている。「ごくありふれた町の古本屋」自体が、現代では絶滅危惧種でもあるのだけれど。なぜかどうしてか古本屋を始めて、なんとか五年生き残った。死にぞこなったとも言えるかもしれない。

 きっかけは京都の私立大学を進路を決めないまま卒業したことだった。その頃の僕を表すなら「惨め」の一言につきる。本当は大学院に進学したかった。文学の研究者になりたかった。いや、ただ京都で暮らしたかった。本を読んで、本に触れて生きていたかった。できれば好きな女の子と一緒に。でも、それは叶わなかった。卒業前の数か月、僕はまったく本が読めない状態になっていた。大学院進学を諦めた。慌てて始めた就活でなんとか決まった内定先は辞退した。あんなに書きたかった中原中也の卒論も書き終えれないまま、僕は卒業した。いや卒業させてもらった。実家に帰ってきた僕は惨めだった。久しぶりに香る実家の匂いが悲しすぎるほどに優しかった。

 つまり、僕は逃げたのだった。社会人になることから逃げた。「社会人」という人間が何かも分らなかった。それでも人は勝てと言う。負けるなと言う。頑張れと言う。努力しろと言う。銃を突然渡されて、目の前の敵を殺せと言うか如く。それは戦場だった。でも僕は頑張りたくもなければ、努力もしたくない。誰も殺したくないのに、どうして戦えと言うのか。誰かを蹴落として生き残ることが、本当に勝ったと言えるのか。ただ僕は本を読んで、本に触れて、女の子と一緒に美味しい酒を飲みつつ暮らしたいだけなのに。

 でも、好きな本を読むにも美味しいお酒を飲むにも金はいる。奨学金の返済も日本学生支援機構は待ってくれない。気づけば僕は故郷の隣町、尾道に足が向かっていた。この街なら僕を受け入れてくれる。なぜか無条件にそう信じこんでいた。それからの僕の動きは早かった。卒業して一年後、ここ尾道で古本屋弐拾dB(にじゅうでしべる)を開店した。

 古本屋を始めてこの四月で五年が経つ。去年の夏には古書組合へ入会し、生活を補うためのアルバイトは年の暮れに退職した。古本を買い取り、古本を売り、なんとか生きている。時々お客さんから貰った缶ビールをちびちび飲みつつ、よもやま話に花を咲かす。学生時代に願ってやまなかった暮らしをそれなりに謳歌してしまっている。逃げ続けていたら、そこに本があった。

 僕は戦場から逃げ出した脱走兵だ。逃げた先が古本屋だった。隠れた先が深夜だった。これしかないと思いたかった。 あなたしかいないと、僕しかいないと思いたかった。 夜と朝の間に隠した頁の切れ端は、 見つからないまま、また僕は渡せなかった物語を書き始める。