岡島書店 2/3

<<11月2日はこちら

11月3日(祝日)

 仕入れてきた本の山で、通路は半分埋め尽くされている。岡島さんは文庫の束を帳場に運びながら、「狭くてごめんなさいね」とお客さんに声をかける。

「入札した文庫がどれも落っこっちゃったけど、こんなに要らないんだよ」。文庫を仕分けながら岡島さんがこぼす。「入札が難しいのは、落ちないときは全然落ちないのに、落ちるときはババババッと落ちちゃう。そうすると、うちみたいに小さい本屋は置き場所に困っちゃうんだよな。昔の市場は"振り市"で、1本ずつ振ってたから、そのとき必要なぶんだけ落とせたわけ」

BDSC_5784.JPG

 "振り市"というのは、いわゆるセリだ。"振り手"と呼ばれる進行役がいて、セリを進めてゆく。その日に出品される本の山から、"荷出し"が順番に本を選んで"振り手"に渡し、セリにかける。ここでも基本的に、よほど貴重なほんでなければ、1冊ずつではなく、何冊もの本を紐で縛り、セリにかけられる。そこに「×××円!」と買い手から声が上がる。最初の第一声を"はな声"と呼ぶ。この"はな声"を出すのは本の価値を熟知していないと難しく、「あんまり低い値段を言っても、それからあんまり高い値段を言っても馬鹿にされてたんだよな」と岡島さんは振り返る。

「俺は昭和38年に二十歳で古本屋になったんだけど、その翌年に組合の経営員にならないかって言われて、しばらく事務をやってたんだよ。そのうちに『振りをやってみろ』つう話になって。東部でも振り手をやったし、神田でもやってたの。振り市ってのは、昔はものすごい勢いでまわってたから、決まったとこへ座ってもらわないと困るわけよ。『こっちからの声は誰々さんだ』というふうに、感覚でおぼえてるからね。だから、座るとこが皆決まってたから、その人がこないからってチンピラが座っちゃうと引っ叩かれてたよ。昔は『あの人の上には声をのっけづらい』なんてこともあったし、若いのはなかなか声出せなかったんだよね」

 振り市は午前中から日が暮れるまで開催されていた。それだけ出品される本の点数が多く、振り手にはそれを迅速に捌く技量が求められる。素人からすると、高い値段で落札させるのがよい振り手のように思えるけれど、気をつけなければならないのが"出直り"だ。せり落とした本に難があった場合、一回に限り、本の山に戻すことができるのだという。あまりにも値段を吊り上げてしまうと、落札したあとで"出直り"になる可能性も高くなるので、ある程度の値段に達したところで落札とするのがよい振り手とされたのだと岡島さんは教えてくれた。

「良い本ってのはね、素人が振っても声が出るからいいんです。困るのは、その反対の本が出たときなんだよ。とにかく向こう岸へやっちゃわなきゃなんないから、誰かに押しつけちゃったりね(笑)。たとえばゾッキ屋――出版社で売れ残って、処分されたゾッキ本を専門に扱う店がいくつもあったんです――も市場に本を持ってきてたんだけど、そうすると同じ本が10冊や20冊まとめて出品されるわけ。そういうときはね、俺がパラパラッとめくって、『あ、この本面白いから俺が買った』って言うと、皆も買っていく。そうやって"振り市"をまわしていく技術みたいなのがあったわけ。声の出しかたや間のとりかたもあるし、あいだにうまく話を入れてダレさせないのも振り手の役目だったんだよね」

BDSC_5808.JPG

 昔の市場を振り返りながら、岡島さんは仕入れてきたばかりの本を仕分けてゆく。本を縛っていたビニール紐をほどき、いくつかの山に分ける。自分の店で売れそうな本だけ残すと、あとはビニール紐でくくり直し、軒先に運び出す。仕入れてきた本の何割かは処分することになってしまうのだという。昔は処分する本も紙資源としてお金になっていたけれど、今では有料で引き取ってもらうほかなくなってしまった。

「昔はチリ紙交換が儲けになる時代があったんですよ。回収してまわったゴタ(雑誌)がキロ40円、新聞が50円くらいにはなってたから、1トン積むと5、6万になったんだよね。チリ紙交換から古本屋になったやつもいるし、タテバに入り込んで商売やってたやつもいっぱいいた。タテバってのは古紙を処分するとこだから、そこでたまにすごい本が出てくることがあって、俺が知ってる話だと、宮澤賢治の『春と修羅』の初版本が見つけたやつがいたんだよ。タテバから仕入れてくるんだから、50円か100円で仕入れた本が、あの当時で80万になった。俺はタテバには行かなかったけど、鶯谷のキャバレーなんかに行くと、下町の古本屋が10人ぐらいと、チリ紙交換が10人ぐらいで一緒に飲んでたよ。今じゃ考えらんないけど、古本屋ってのは荒っぽい商売だったんだよな」

 タテバに入り込んで商売している人たちは、そこで安く仕入れた本が何倍もの値段になると、「こないだのアレ、儲かったからいくらか返すよ」といくらか渡すこともあれば、お中元やお歳暮を送り合うこともあったのだという。そのころはまだ、今とは時代が違っていたのだろう。

「あの頃はね、どっかで修行して古本屋になるんじゃじゃなくて、自分で勝手に始めるやつも多かったんだよね。ちょっと気の利いたやつはタテバをまわってね、そこで珍しいのを探してくりゃ3日ぐらい飲めたから。だから俺も、そういうふうに荒っぽく育っちゃってんだよ。昔は"せどり屋"つうのもいっぱいいて、俺も先輩に連れられて車で出かけたことがあってね。当時はネットがないから、地方の古本屋に行くと貴重な本が安く売られてたりしてたんだよね。そういう本を一日かけて仕入れてきて、東京に戻って帰ってきて酒飲んで、その会計を差っ引いても分け前が1万とか2万とかついてたんだから。そういう意味じゃ、昔の古本屋は皆、本に対する知識はあったよね。『この本はいくらになる』という知識がなけりゃ、そんなことできねえんだからよ」

 12時を過ぎたあたりで、妻・雅江さんが店にやってくる。帳場の奥の部屋は台所になっていて、そこでうどんを作り、ふたりで平らげる。

「親父とお袋がやってたころは、立膝ついて飯食ってたっていうんだよね。いつお客さんがくるかわかんないから、すぐ立てるように。そんなに高い本は扱ってなかったはずだから、でかい商売じゃなかったけど、数が売れたから、日銭には困んない商売だった。料理してる暇がねえから、店屋物ばっかとってたうちだよね。ここらへんには蕎麦屋でも中華でも何でもあって、どこも出前やってたんだよな。今はもう、全部閉めちゃったけどね」

 岡島さんの父・喜造さんがこの地で古本屋を開業したのは昭和7年のこと。満州国が建国され、五・一五事件が起きたのもこの年で、当初は「岡島書店」ではなく、「日の丸堂」と看板に掲げていた。そのころ立石は、町工場が建ち並ぶ職工の町だった。

「関東大震災のとき、荒川のこっち岸は燃えなかったんです。それまで町工場は墨田区に多かったんだけど、震災のあとにこっちへ移ってきたわけ。だから、葛飾の人口つうのは震災後にちょっと増えて、戦争のあとにものすごく増えたのよ。お袋の話で覚えてんのは、空襲のあった日の夜に、この奥戸街道を歩いて逃げていく人が大勢いたらしいんだよね。最初に通りかかった人から『水をください』と頼まれて、その人には水を飲ませてあげたらしいんだけど、そのうちにものすごい数の人が逃げてきた。全員にあげてたらキリがないっていうんで、ガラスに幕を貼って――ほら、あのころはシャッターなんてなかったから――音を出さないように黙って過ごしてたって言うんだよね。お袋から聞いた話の中でも、あの話は強烈に記憶に残ってるな」

 戦後の立石には、メッキやゴム、セルロイドなどを扱う町工場が急激に増えてゆく。それにともなって工場で働く人の数が増え、商店街も賑わった。戦後に屋号を改めた「岡島書店」にも、町工場で働く工員さんたちがよく立ち寄ったという。

「あの当時はまだ、娯楽っていうと映画と本しかなかったから、よく売れてましたよ。俺が小さい頃は、立石だけで古本屋が5軒あったんだから。新刊屋になるのが夢だけど、仕入れをするための委託金が払えなくて、古本屋で稼いでから新刊屋になったのも何人もいたんだよね」

 ほら、あの頃は本に飢えてた時代だから。岡島さんはそう言いながら、一冊の冊子を引っ張り出してくれた。青木書店が発行していた『古本屋――その生活・趣味・研究――』(創刊号)。そこには石尾光之祐さんによる「日の丸堂・その他」と題した随筆が掲載されている。石尾さんは、両親が新聞販売所を始めることになり、小学4年生のとき立石(当時は南葛飾郡本田村)に移り住んだ。その翌年に創業した「日の丸堂」に、石尾少年は通いだす。

 私は「ヨロク」とこづかいの殆んどを、「日の丸堂」の右側の平台にあった豆講談本にいれあげた。講談本を濫読したと云っていい。よりぬいて一冊を買うと、ついでに立ち読みで他の一冊の半分ぐらい読む。持って帰った一冊は階段の「私の場所」で、たちまち読み上げる。夕方配達が終ると、その一冊を持って「日の丸堂」にかけつける。そして――それを繰り返す。夫婦は私が近所の「新聞屋の子」とわかったらしく、重い口で話しかけるようになった。
 私がただ読みしていても黙認してくれた。おばさんは平台を整理すると、ゆるゆると帖場に戻って泰然としている。あまりハタキもかけない。おじさんは店番のときはいつも、本のつくろいをしている。(※〈つくろい〉に傍点)

「うちの父親はほんとに優しい親父で、金がない学生がタダ読みしてると、『立ち読みは駄目だから』って声をかけて、2階に上がらせて本を読ませてたらしいんだよね」。岡島さんがそう教えてくれた。石尾少年が近所の「新聞屋の子」だからと特別扱いされたわけではなく、本がない時代だからこそ、こどもたちに本を読んで欲しいと思ったのだろう。石尾さんの随筆にある「本のつくろい」とは、本の修繕作業だ。

「本もなければお金もなかったから、親父はよくぼろぼろの本を直して売ってたね。本を直すのが好きな親父だった。それでこどもが育ったんだから、すごい商売だったんだね。俺は記憶にないんだけど、親父は縁日で古本を売ってたらしいんだよな。親父が縁日で商売してるってのが、どこか恥ずかしかったのかもわかんないね。縁日で売るときは、『改造』や『中央公論』にエロっぽい雑誌の表紙をくっつけて売ってたらしいんだよ。それに対して文句を言ってくる客はいなかったっていうから、字が載ってりゃ何でもいいって時代だったんだろうね」

BDSC_5822.JPG

 仕入れてきた本の仕分けがひと段落すると、次は本の値付けだ。鉛筆を手にとると、岡島さんは本の最終ページにするすると値段を書いてゆく。そんなにパッと値段が決まるんですねと声をかけると、「だってもう、いくらなら売れそうかって、大体わかるだろ」と岡島さんは笑う。岡島さんがやってきた商売を考えると、一冊ごとに手を止めて「この本はいくらにしよう?」と悩んでいては追いつかなかったのだろう。

 「岡島書店」は、東京古書組合の東部支部に加盟している。東京古書組合は、いくつかの支部に分かれており、東部支部には台東区・荒川区・足立区・墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区の古本屋が所属している。東部支部の分岐点となったのが、昭和44年に開催された浅草古本市だった。

「浅草古本市つうのは、浅草の観音様の境内にテントを張って、そこで古本市をやったんだよ。ひとりあたり畳一枚ぶんの広さで、あの頃は外売り用の棚なんてねえから、箱に古本を本を並べてよお。それがもう、とんでもない勢いで売れた。それまで東部は古本市をやってこなかったから、皆びっくりしたんだ。急いでうちに帰って、値付けをして補充して――あんまり売れるから、売る本が追いつかないぐらい大変だったね」

 浅草古本市の成功から3年後、東部支部は昭和47年に「新宿京王デパート屋上青空展」を始めている。当時、新宿の別の百貨店でも古本市が開催されており、「京王百貨店でも開催してもらえないか」と打診があった。しかし、デパートで古本市を開催するには相当な量の本が必要となるため、新宿支部では引き受けられず、東部支部に話が回ってきたのだ。

「あのころは俺なんかまだ使い走りだから、東部支部が主催で京王デパートで古本市をやるってときに、人集めや場所割から、ノルマや運送の交渉まで手伝わされていたんだよ。あの時代はまだ車を持ってない人のほうが多かったから、京王の運送に荷物は運んでもらうことにして。デパートでやるとなれば、本が1トンは必要になるからね。デパート展を抱えてるのは大変だから、何年か経ったところで東部支部から手放すことになるんだけど、何年間かは俺が親分でやった時代があるんだよね」

 京王百貨店での古本市は、形を変えて2012年まで続いた。だからデパート展の風景というのは僕にも見覚えがあるけれど、驚いたのはスーパーマーケットで古本市を開催していたという話だ。その風景は、ぼくにはまったく見覚えのないものだ。

「スーパーで古本市をやり始めたのは、昭和50年代に入ったころじゃないかと思うんだよな。スーパーで古本が売れるかどうかなんてわかんないまま、平台に本を並べて行ったわけ。とりあえず児童本を中心に売ろうと思って、4台ある平台のうち、1台は児童書にしたんだけど、やっとこさ本を並べ終わってみると、もう児童本は3分の2くらい売れちゃってた。今思うと嘘みたいな話なんだけど、あの頃はまだ郊外に古本屋が少なかったから、本が定価より安く買えるのが珍しかったんだろうな。児童本も売れたし、料理の本だとか、雑本が猛烈に売れた。八幡の西友を皮切りに、月のうち2週間はスーパーで古本市をやって、千葉の西友はほとんどまわったね。だから、店はカミさんに任せて、俺はほとんど外売りに出てたんだよ」

 岡島さんは自分の商売を「郊外の古本屋」と語る。それは、ひとつには、外売りで稼いできたという自負があるのだろう。そしてもうひとつ、稀観書ではなく雑本を扱ってきたという自負もあるのだと思う。

CDSC_5938.JPG

「小さいころは『お前んちは古本屋だろ』って言われるのが嫌だったこともあったんだよね。正式には『古書籍商』になるんだけど、途中から『古本屋』のほうがいいなと思うようになってよ。俺んちなんか、古書籍商なんて名乗るほど洒落てないし、高いもん扱ってるわけじゃないし。古書組合の支部でも、南部なんかは世田谷を抱えてるから、古くからのお屋敷もあって、本が出てくる土地なんだ。こっちは町工場ばっかだから、本は出てこないし、扱う本も雑本が中心になったんだよね」

 気づけば日が傾き始めている。岡島さんは姿勢をひねって腕を伸ばし、表にあかりを灯す。今日はほとんどお客さんが訪ねてくることはなかった。最近は休日の来客が少なく、特に旗日は駄目だと岡島さんは笑う。「でも、いいんだ。昨日仕入れてきた本を片づけなきゃなんなかったんだから、ちょうどよかったんだよ」と。

 今では町工場も減り、立石だけで5軒あった古本屋は「岡島書店」を残すのみだ。1990年に相模原で創業したブックオフが、急速に店舗を拡大するにつれ、郊外でも古本が珍しい存在ではなくなり、スーパーマーケットでの古本市も姿を消した。数年前に岡島さんは外売りをやめて、昨日のように市場に出かける日をのぞけば、ここでずっと店番をして過ごすようになった。これまで外売りで飛び回っていたところから、帳場に座り続ける生活への変化というのは、すぐに慣れたのだろうか?

「それは全然、苦にはなんなかったな。体もキツくなってきたし、病気してからは飲みにも行かなくなったからね。だから、ちょうどよかったんだ。もし元気だったらつらかったかもしんないけど、やっぱり外売りはキツいからね。ただ、どうしても前より運動不足になるから、夜に飯食ったあと、カミさんと30分くらい歩くようにしてる。あとはもう、テレビを眺めてボーッとしたり、新聞を隅から隅まで読んでたら2時間ぐらいあっという間に経っちゃうからね」

 この日はスーパーチューズデー。アメリカで大統領選挙がおこなわれる日だ。日が暮れたころになって、本の整理を終えて、岡島さんはようやく新聞に目を通す。「しかし、アメリカもすっかりおかしくなっちゃったな。トランプは『負けたら訴える』って言うんだから、わけわかんねえ話だよな」

 ニューヨークと東京の時差は14時間だから、向こうは今、夜明け前だ。明日、世界はどんなふうに変わってしまうのだろう。

>>11月4日につづく