はじめに インタビューとは何か

▼内部を覗く、ということ

 僕が初めてインタビューでお金をもらったのは1999年の5月11日のことだった。

「本日、M乳業のPV撮影。撮影はHさん。僕はインタビューを任される。ムチャな感じ。ノートや資料を膝において一時間。現場の発酵担当のKさんに訊く。しどろもどろ。ほとんど使えないとHさんに叱られた。凹む。取っ払いのギャラは一万円。有難い。Eとデートにいける!」

 当時の日記を読むと、こう書いてある。その頃、僕は日本映画学校を卒業し、たまに企業用ヴィデオや本編の助監督につくフリーターだった。Hさんは浜口さんという、学生時代からの恩師だ。ブラブラしているのを見かねて、浜口さん一人でも出来る仕事に僕を誘ってくれたんだと思う。Eという名前は現在の妻さまだ。

 このインタビューは本当にダメな出来だった。ヨーグルトを製作して30年というベテランのK=金沢さんへ「仕事の流れの要点」を訊くに終始した。最低限度の情報は聞き出せたのだが、それではダメだと浜口さんは言う。

「あのな、キッシー(僕のこと)、お前さんがさぁ、金沢さんに喋ってもらったことはよ、ホームページや資料パンフレットにあることなんだよな。PVってのは映像だ。ドキュメントなわけよ。そこで使えるものってのは、語られる情報じゃなくて、金沢さんのキャラなんだよ。かっこつければ人間性さ。いいかい、インタビューはインター(内部)をビュー(覗く)作業なんだから、そこをクリアしてないと、陸上で言うA標準になってないわけさ。オッケー?」

 国立競技場前にあるラーメン屋で、この注意を聞いて僕は凹んだ。麺が急に喉に詰まるような感触を忘れていない。浜口さんが言うようにインタビューとは話者の人間を観る(読む)ひとに感じさせるものだったのだ。

 この有難いアドヴァイスをくれた浜口さんはこの世にいない。昨年の初夏、急逝した。もう僕のインタビューを見てもらうことができなくて哀しい。
 僕は最初の失敗から少しでも巧くなったのだろうか。常に自問している。


▼インタビュー本、私的ベスト5

 映像から活字の世界へ移ってからもインタビューに関する基本は変化していない。映像で話し手の表情や口調があらわになる効果から、文字によって語り口や論調などで人間性を浮き彫りにしていくことへ移行していったに過ぎない。

 ただ活字のインタビューは独特の魅力がある。のちに具体例として引用していくことになる、僕が影響を受けたインタビュー本たちは凡百の小説などよりもはるかに味わいがある。ここで「インタビューって面白いですね」的な私的ベスト5(順位不同)をあげておこう。

①「映画とは何か」山田宏一(草思社)
②「戦中派天才老人・山田風太郎」関川夏央(ちくま文庫)
③「昭和の劇」笠原和夫、荒井晴彦、すが(糸偏に土ふたつ)秀実(太田出版)
④「やわらかい話」吉行淳之介(ちくま文庫)
⑤「対談現代文壇史」高見順(筑摩叢書)

 と、いったところか。座談を含めると「座談会明治・大正文学史」(岩波現代文庫)も次点で入れたいところ。この本の勝本清一郎の暴れん坊ぶりにビックリした。なんというか自説を押し切ろうとする強引さや思い込み、追憶などがごった煮になって喋っているのだ。本稿では触れないけれど、よく文章になったもんだなあと何度も笑いながら感心した。是非、未読の方は手にとってもらいたい。濃い人間が文学を語るとどうなるか、その面白さがあります。


▼インタビューという「或る文学形式」

 ①、③に映画本が入るのは、僕の趣味である。けれど、インタビューの本という私的ベストにおいてジャンルは関係がないと予め考えた。スポーツ全般、芸能、政治。経済も含めたインタビューの本を並べてみて、ベストの出来のものを選んだつもりだ。

 山田宏一はアンジェイ・ワイダなど異国の映画人に対して、己の主張よりも映画人の考える「映画」を探り出そう、それが批評以前の「映画的魅力」であると意識しているところに感動できる。僕の考えるインタビューの理想形である「聞き手の透明化」が完璧に近いたちで表現されている。

 東映任侠・ヤクザ映画の脚本で知られる笠原和夫へのインタビューである「昭和の劇」は映画人を通じて昭和という時代をまるごと掴もうとする難作業を見事になし得ている。ロングインタビューであるから生い立ちから死生観、瑣末な趣味嗜好までが語られることになる。そのディティールの一切が読む者に驚きと心の高揚を与えるドラマになっているところが凄い。

 ②はインタビューを交えたノンフィクションである。だが取材対象者である、関川夏央の伴走によって、稀代の作家「山田風太郎」の日常性から作家「内部」の異常性が炙りだされていく過程はスリリングである。原一男による映画「全身小説家」では井上光晴が被写体となっていたが、原の思い込みが行き過ぎていて感心できない作家の肖像になっていた。これとは逆に活字という、ある種、映像のように直裁的に活写できない媒体で、映像を越えた肉感性を文によって表現し得たのは、今の段階の僕の考えではミラクルに近い。関川と山田の「付き合い方」の結晶であって二度も同じものは生まれないものだ。

 ④の吉行淳之介による対話集こそ、「透明な私」が相手のふとしたヒトコトを汲み取り、それによって読者へ親近なイマージュを与える奇跡の話文芸である。

 これも後述するが、インタビューとは第一段階、話を訊くという作業がある。次に第二段階の喋った内容を文字に起こすという、やる側にとっては根気のいる作業が控えている。その起こしをさらに第三段階で整理し編集するという難易度高めの頭脳労働を経て、最後に相手の原稿チェックを済ませて世に出ていく。吉行淳之介の対談で、緻密さ繊細さを要求される第三段階の原稿整理を多く任せられたのは長部日出雄である。「週刊読売」の記者として「松竹ヌーベルバーグ」という言葉を定着させるなど、言葉を組み立てる才能にずば抜けた長部は作家への道の過程で、吉行座談に関わった。ご本人に一回だけ、当時のことを伺っただけだが、口調や語尾の処理、コンストラクションの立て方には細心の注意を払ったそうだ(と、日記には残っているけれど間違ってたらごめんなさい。長部さん)。

 高見順を好きな読者は⑤のような軽快な会話をスムースに行える性格の文士でもあったのかと軽い驚きを感じたに違いない。志賀直哉や平野謙など昭和文壇の大御所や一緒に頑張った同志と回顧していくわけだが、高見は訊きにくいこと(女の問題や思想上の転向など)をフレンドリーに突っ込み、受けは真摯にという態度を繰り返して、過ぎ去った時代とその時代を過ごした者の現在の相貌を浮き彫りにする。巧い。高見としてはきっと、労作かつ大傑作「昭和文壇盛衰史」執筆や補填のためだったのだろうが、テーマを抜きにしても会話の運びや構成のドラマツルギーがしっかりしていて読み応えがある。

 以上のような五冊を読み通して頂くと、インタビューや対話集というジャンルの文学性に気がつくことだろう。単に資料的価値などではない別の価値がそこに輝いていることに。戯曲のような会話の流れ、言葉の力、ドラマチックなスジ運びもある。さらに人間性の可笑しみ、哀しさがあり、小説では味わえない体温が文章から感じられるはずだ。

 読んで面白い。小説やノンフィクションとは違った肌触りがある。うん、そうなんです。読者に「文学性」を感じて頂いたついでに、次に述べたいのは、インタビューは実学であることだ。そう、実生活に役に立つことがインタビューには詰まっている。

 文学のようで、さらには実生活の知恵が語られるのがインタビューなんです。それは読まれる文章もそうですが、行われる対話においても。