第二回 インタビューを読む

作劇術
『作劇術』
新藤 兼人
岩波書店
2,700円(税込)
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▼新藤兼人インタビューで学べたこと

 インタビューを読むと意外な処世の知恵を発見することも多い。とくにひとりの人物に迫るロング・インタビューでは。自分の仕事を出すのは気がひけるけれど、小野民樹さんと行った新藤兼人へのロング・インタビューでは学ぶことが多かった。
「溝口(健二)さんに『これはシナリオではありません』なんて言われて、書いた紙をバサッと畳に落とされたたときには、頭がね、もうですね、パーっとなって、その後、僕が何をしたやら、考えたやら覚えていません。とにかく気がついたら踏切のところまで歩いてきてたんです」
 これはその『作劇術』(岩波書店)で行った録音の一部を音源を拾って書き起こしたものだ。若きシナリオ作家新藤兼人は、戦前であった当時、大監督の地位にいた溝口健二にシナリオを読んでもらう。そこで、右のように斬って捨てられたというわけだ。上り坂の若い物書きが大物の先輩に食らった猛鉄槌の味は血の味すらしたことだろう。
「家に帰って、奥さんにこのことを話しました。で、京都から尻尾巻いて逃げるかどうか考えた。ええ。で、僕は勉強し直そうって思ったんですね。その取っ掛かりにですね、『近代戯曲全集』を古本屋で見つけて、そこのオヤジに一冊ごと借りて読ませてもらったんですね、お金がないから。シナリオとは何かというのを捕まえよう、思うたんですねえ」
 一年後に彼は模索し、掴んだシナリオを引っさげて溝口に再度読んでもらう。そして見事、認めてもらえるのだ。
 この一事を見てもわかるが、身寄りも金の助けも殆ど無い京都に留まり、シナリオとは何かを考えようと思うじたいが、破格であると思える。超ガッツである。粘り腰、負けん気と克己心には痺れる。物書きとはかくあるべし、ということを学んだように思う。
 新藤兼人のインタビューには、この種のエピソードが多く語られている。心理よりも何をしたかという行動を説明するあたりは、さすがシナリオ作家である。

▼同業者の一言にビビらされる

 僕は読者としてインタビューを読むのが好きだ。インタビューを行うのは、じっさい苦手かもしれない。準備期間の時に、既に顎が上がるほど疲弊して、やっとのことで務めを終える事が多いからだ(本番前に腹を下すし、喋ればなんだか長くなるのであっという間に1キロは痩せてしまう)。
 インタビューの本を開くと、様々な職種の語り手が振り返る過去や仕事のことが綴られている。どちらかと言えば、ここ一番で語り手が「決め」をするところよりも、ふとした一言や行動に触れる箇所で胸が打たれるという場合が多い。
 さいきん読んでアッと思ったのは、『現代日本文学大系53 大佛次郎 岸田國士 岩田豊雄集』(筑摩書房)の付録で見つけた岩田豊雄に話を訊く座談会だ。僕は花田清輝がピランデルロを語る際に引き合いに出し、高評価を与えた岩田豊雄『東は東』(この戯曲、確かに面白い)を読むだけだったのだが、ついつい好きが高じて付録を先に読んでしまった。ここで岩田豊雄=獅子文六が岸田國士への嫌味と共に戯曲への熱を語るわけだが、彼は売れっ子小説家となったのは「食うためですよ」とさらりと言ってのける。獅子文六としての作である『娘と私』や『箱根山』などを読んできたこっちは、開いた口がふさがらない。彼の真実の創作熱は戯曲、演劇にあり。小説は仕事であると言われて、駆け出しモノカキである僕は呆れるのではなく、どんなに筆で食うのに技量と才能が必要か、を思い知らされ慄然としたわけだ。小説は子どもを養うためと言われては、僕は相当の覚悟を迫られたことになった。こういう瞬間があるからインタビューは面白くも恐ろしい。
 僕のような職種にいる者にとって、同業者のインタビューや座談はサラリーマンにとっての「実用書」である。

▼スタッズ・ターケルが拾った言葉たち

 アメリカのインタビューの大家といえばスタッズ・ターケルがいる。大著『仕事!』、『よい戦争!』(いずれも晶文社)などは彼のチームが大車輪で文字起こしや原稿整理作業を行った結果の労作である。インタビューを仕事にしていこうと思った頃、市井の人々への巨大なインタビュー集を読んだ。やはり学ぶことが多かった。
 見知らぬ土地で未知の仕事を行なっているひとの言葉が連なっている。それ自体でおどろくべきことだと思う。このネット社会でもこういった「語り」と出会う機会がどれほどあるかどうか......。
 『仕事!』に元鉄道員であるビル・ノーワースというひとが出てくる。僕はそのひとの出てくるページにドッグイヤーをつけている。とにかく働き詰めの彼なのだが、ふと思い出話の途中でこういう瞬間がある。

 列車がボーって汽笛鳴らして、踏切りをこ
 えて通り抜ける。それがさ、一マイルか二
 マイルはなれてもきこえる。山びこになっ
 て抜けていったな。あれは......(話をやめ
 る)......そう、いい気分だったな、ほんと
 うに。
         (『仕事!』p521)

 詩がある、と思った。六日間休みなく働いて、十時間だけ休憩がある。そういうキツい仕事をやって、会社のリストラも目の当たりにする日々。そこで見た風景への追憶に一瞬でも浸る。ここに仕事の厳しさが滲んでいると思ったのだ。そういうポエジーに僕は弱く、深く感銘してしまう。
 またノーワースは語る。会社との関係についてを。

 でも(筆者註/会社と)闘わざるをえなか
 った。まあこんなふうな感じだったんじゃ
 あないのかなあ。あいつを動かす力はうば
 われはしないぞーって。そいつに、私たち
 が正しいとおもうことを認めさせていく。
            (同書P522)
 
 僕はフリーランサーだけど、会社に踏みつけにされることもある。その場合、泣き寝入りすることがある。頼まれた仕事のギャラが未払いになったり。まあ、出版は仁義と人情商売の向きがまだ残っていたりするので、多少は我慢するけれど、家賃も払えないほど追い詰められたこともあったので、この右の言葉「私たちが正しいとおもうことを認めさせていく」には励まされたものだ。
 同じ本に出てくるコピーボーイ、チャーリー・ブロッサムの結びの言葉は未だに忘れられない。フリーランサーで仕事している意味を教えられたから。

 ぼくは精神の辺境開拓者になりたいんだ――そういうところならしごとだって苦役じゃあない。
            (同書P541)

▼拾われ言葉は人間の知恵を表す

 くり返し言うが、インタビューを読む行為によって得られるものは多い。時として仕事を越えた、世間(ザ・ワールド)の摂理を見せつけられることもある。それは厳しくも避けられないものだ。
 バリー・ギフォードとローレンス・リーのコンビによる多くの証言を交えたドキュメント【ブック・ムービー】作品に世間の摂理が顕になる箇所がある。

 戻ることはできません。トマス・ウルフも
 そう言っています。戻ることはできません。
 われわれのところにも、メアリー・カーニ
 ーのところにも、あの風景のところにも。
 しかし真夜中に、電話がかかってくるんで
 す。いつも雪が降っていて寒い夜でした。
 われわれは、彼の昔の仲間たちは彼のこと
 を見捨てたんです。しかし、われわれに何 
 ができたでしょう。
(B・ギフォード、L・リー著『ケルアック』青山南・堤雅久・中俣真知子・古屋美登里訳、毎日新聞社)

 ジャック・ケルアックの最晩年を語るG・J・アポストロスの発言だ。時代にまつりあげられ、人生と作品を荒野のなかに彷徨わさせざるを得なくなった男の晩年。これは特別なことではないだろう。それを気が付かせてくれるアポストロスの言葉。僕たちもまた、過去に戻ることはできない。意味があるとすれば今日よりも昨日なのだ。昨日の行動が今日の意味をなしていく。その意味の積み上げが終わりに近づく時、人間はどういう場所に生きるのか。そういったことを知らしめてくれた。
 大仰かもしれないけれど、人間の教えとは宗教の経典だけにあるものではない。市井のひとから特殊な職業や境遇にある人びとの、〈拾われた言葉〉のなかにもあるのだ。その拾われた言葉の連なりこそがインタビューである。

▼読む、訊く、話す。インタビューの魅力

 ここまで述べたようにインタビューというものは楽しみの裾野が広い。
 また、インタビューをする行為というのも苦しいけれど、発見の連続である。テーマに沿った対象者を見つける。ファーストコンタクトとしての手紙、電話、面談。次に行う調査。相手のこれまでの仕事の記録を知り、著作があれば読む。何が好きか、何が嫌いか。誰が敵で、誰が味方か。そして対面、話を訊く。
 これは通常行われているコミュニケーションをさらに濃密にする行為だ。続いて語られた言葉を文字にし、整理し、読ませるためのものに仕立て直す。この作業もまた、未知の不特定多数のひとたちとのコミュニケーションである。
 そして結果として仕事となるという不思議。
 読む、訊く、話す、まとめる。
 この一連の行為の〈面白さ〉を僕なりにこれから順を追って語っていくことにする。