第21回 三島由紀夫の「聞く力」 鑑賞篇4

源泉の感情 (河出文庫)
『源泉の感情 (河出文庫)』
三島 由紀夫
河出書房新社
994円(税込)
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▼天才作家の直裁的な語り

 インタビュー術の鑑賞篇として次に挙げるのが三島由紀夫だ。人気作家であり、小説以外での活躍もめざましい。三島由紀夫は処女長編『仮面の告白』(新潮文庫)で文壇内外に衝撃を与え、以後作品の量産を重ね、『潮騒』『金閣寺』『禁色』『鏡子の家』(いずれも新潮文庫)など話題作を発表し地位を固めた。コラムや批評も巧みで、著作も多く、僕自身振り返ると小説よりもそっち系のほうを愛読していた。正直、『仮面の告白』と『金閣寺』はしんどい感じだった。テクニカルな嘘の積み重ねが透けて見えて、読みにくい文章ではないのにリーダビリティが悪いように感じたものだ。個人的に好きな作は『鏡子の家』『美しい星』の二つだ。この二作には三島の挑戦が垣間見え、古典的な流れに則りつつも前衛してるんだなあと何度か読み返したほど。
 いっぽうで、三島由紀夫というひとは抜群にインタビューが面白い。される側ではなく、する側として。今回紹介したいのは対談と銘打ってあるが、よく読めばインタビュアー三島である『源泉の感情』(河出書房新社)と、訊かれる側に立っている印象の『人間と文学』(講談社文芸文庫)の二冊。前者は各界の著名人に話題を振って三島が聞き出そうという趣向。後者は文芸評論家である中村光夫との対談となっている。
 この二冊をさらっと眺めると、大変に三島というひとがオシャベリであることが分かる。そして、話題に関しては直裁的でワンテーマ押しのタイプだ。オシャベリのくせに話が拡散していくような気配が微塵もない。真面目なのだ。律儀なのだ。己のルールが確固としてあるのだ。これが小説ならば先程述べたような不自由なリーダビリティに繋がっているのだろうが、喋りだと不思議に気にならない。むしろ、切れ味がいい印象を受ける。

■ケレン味と折り目正しさ

 三島は開巻に必ず、自分が今回訊きたいことをスパっと切り出す。これに付随して己のテーマへの思いを語る。とくに文学についてはこのスタイルだ。中でも安部公房をゲストにした項目が文学篇では面白い。

三島 性の問題だね、結局、二十世紀の文学は。
安部 それと、言葉の問題だろうな。言葉とイメージの関係......。
三島 それもきみ、無理にやはりこじつければ、性のほうに関係してくるのではないかな。
安部 それはそうだろう。
三島 つまり性の観念がね、ヴィクトリア朝のころは、非常に観念的なものだよな。ひたすら観念的に恐ろしがっていたものが、もっとニューっとした形で出てきたから、それを映像で処理すればたいへんなことになるし、言葉でそれをどうやってついきゅうするかということになれば、またこれもたいへんなことになる。
安部 どうも、いきなり性の問題と出られたので、ちょっとまごつかされたね。(笑)しかし、性というやつは、観念的なものから、即物的なものになったというよりは......(略)

 このように三島はのっけにケレン味ある発言で場を掴んでしまう。安部公房は以後、受け太刀にまわらされてしまう。可笑しいのは性の話題で振っておきながら、結果的には二十世紀文学に関する自然主義や語り口、意識の問題など、三島は練られたコンストラクションで話を持って行き、ラストは奇妙な締めくくりで終わるのだ。性の問題は、この際、安部公房とはどうでもいいような。煙幕のようなネタ振りだったのか。

安部 話がこういうふうに飛んじゃっちゃますいが、しかし三島くんと言えどもだよ......。
三島 駄目だよ、おれは無意識はないよ。
安部 そういう変な冗談をいうなよ。(笑)どうも結末がつかないな。おれが主導権を取っておれば、結末をつけたけれども取られちゃったから、わからなくなったよ。
三島 まあ、これでいいよ。それで、両方喧嘩別れでおしまい。
安部 そういうことにしよう、絶対に無意識のないものはない、というところで。
三島 どちらを結論にするか、そこが問題だな。(笑)

 なんだこりゃ、である。三島の「これでいいよ」もひどいが、安部の「そういうことにしよう」もないだろう。けれど三島の訊きたいことはこの項目では達せられているのだ。つまり、同時代の異才・安部公房と己の文学性の違い。そして似て非なるものに見えて根幹が同じであることを読者に示したかったのだ。文学篇では常に自意識のせり出しへ歯止めをかけ、相手の文学観を露呈させる。それは大江健三郎、石原慎太郎でもそうだ。けれど先輩には折り目正しい。小林秀雄や舟橋聖一とは一定の距離を保って、聞き役に終始している。相手を暴こうとはしていない。
 この態度、誰かに似てるなあと思ったら『小津安二郎物語』(筑摩書房)や『饗宴』シリーズ(日本文芸社)での蓮實重彦がそうだった。蓮實インタビュアーは敬意を払う年長者相手には徹底的であり、同世代や年少には割合挑発的な物言いをする。それでいて品が良い。三島由紀夫と蓮實重彦の「語り」への考え方は一脈相通ずるものがあると思う。

三島 一番お好きなものはやっぱり『道明寺』でございますか。
山城 ああ、あれなんか、あんまり人の好かないもので、お客さんでも皮肉なことがお好きな方が、やはり好きですな。

三島 たとえば、かけあいの一幕で出ますときには、すでに一段語れるような実力がないと......。
山城 いや、そういうものでもありません。
三島 ご修行というのは、えらいもんでしょうね。初めの......。
山城 そうですね、自分の師匠でなしにだれかれなしに着物を着せたり......。

 これは『源泉の感情』の芸能篇、浄瑠璃の長老、近代屈指の名人、豊竹山城少掾へのインタビューである。三島自身、あとがきで最も緊張したと告白しているだけに、そのヒヤヒヤ感が伝わってくる。本当に好きなものだけに、彼の素の表情が垣間見え、三島由紀夫でなくともその道に通じたインタビュアーでも務まるような出来になっているのが不思議だ。そこに三島由紀夫にある〈生真面目〉さ、ショーマンシップに基づいたプリテンドの合間の〈普通人〉を覗く事が出来るのが面白い。

■偽りの語り

 評論家・中村光夫は『人間と文学』において対談者である立場を越え、聞き出す人として活躍している。

中村 だけど、そういう(引用者注 社会的・金銭的成功を指す)野心を持つことと自分に満足することはちがうんじゃないの。
三島 絶対ちがうと思う。
中村 みな自分に満足して、しかもその上を望むのが普通の市民だ。
三島 文士はいつまでたっても自分に満足することは全然ない。あなたはどうも誤解していて、ぼくのことを、自分で満足していて、思うとおりにいった男で、食後に葉巻をふかして......。
中村 そんなことはいわないよ。(笑)
三島 どうもそういう男のようにぼくを誤解してらっしゃるらしいけど。
中村 誤解というより羨ましいんでしょうね。
三島 だけど何にも満足ではない。
中村 それはあなたの知ったことで、人はそう思わぬ。しかし何も満足がないというところをもうすこしきかしてよ。それはおもしろい。

 図らずも序盤の「市民と芸術家」あたりから三島の内面へ中村が食い入ろうとする場面が現出し、以後、中村が鋭いツッコミや巧みな合いの手を入れていく。ちょっと長いが死生観の美的問題についての話題を引用したい。

中村 それがあなたのことばとしてぼくにもわかる気がするけれど、屁理屈をいえば、それなら若いときには満足していましたか、ということもいえる。
三島 絶対満足していない。
中村 困るね。
三島 だけど同じ滿足していないのならそのほうがいいだろうと思う。
中村 若いほうがいい。
三島 若くて死んだほうが。
中村 それはそうだ。
三島 満足しないで八十で死ぬのと満足しないで二十で死ぬのとどっちがきれいですか。まあ美的な問題だ。
中村 きれいということになればそうだろう。
三島 年をとればとるほど二十で死んでなかったのはなんてバカだったろうと思う。
中村 二十で死ねなかったから死ぬわけにいかないということになる。
三島 あとはフライング・ダッチマン(幽霊船長)になっちゃってるわけですよ。そしてずっと北の海をいつまでも死ねないでうろついている。
中村 それはいまだれかと向い合って、自分は死にますという青年がいたら、そいつを、お前死んではいかぬというふうにはっきり言える人はだれもいないと思う。
三島 絶対いないはずです。
中村 だけど、いないというのはぼくはよくないことだと思うんだな。
三島 もし成熟している人間がいたら言えるはずなんだね。
中村 言えるはずだ。
三島 小林(秀雄)さんは言えるだろうか。もっとも小林さんはぼくに忍耐しろといったから、そうだろうな。しかし、これ以上忍耐はかなわぬ。
中村 すぐそういう贅沢をいう。

 全編にわたって中村光夫は三島の心の問題や芸術観に小気味良いジャブを与え続けている。ヘビーパンチではない。もしもヘビーパンチを繰り出したなら「対談」は成立していた。いや、三島ほどのガードの高い男であれば「偽りの告白、論述」を続け、対談を成立させないで終わったかもしれない。
 この本の不思議さは、中村光夫がジャブオンリーで応対し、三島のプリテンドした露悪・偽悪趣味はどんどん剥がれ落ち、ノーガードで語りだすところにある。けれど中村光夫は三島由紀夫の将来引き起こす自決を知らないためか、「またそういうことを」「ほんとうかい」「そんなことはないだろう」と細かく叩く。結果、重大な発言を誘い出し、それがこの本の末尾になったのだ。オシャベリのインタビュアーが受け手にまわり、聞き手に徹し始めた巧者によって、唐突に世界を終わらせる、死を与える薬としての「ことば」についてを語る。次に引用する発言は、インタビュー史上での、真にホラー的場面だと思う。脈略はないが、僕にとってカール・テオドール・ドライエル『吸血鬼』の唐突な恐怖場面に近い。世界を覆う効果のある言葉だ。

三島 それがまたもう一度現実を終わらせる別の方法を考える。ことばは何もはじめやしないし、革新もなければ、物事を生みもしなければ、もちろん革命の役などに立つものですか。少なくとも芸術は革命の役に立たない。社会もよくしないし人間もよくしない。ただ終わらせる。ことばというのは世界の安死術だと思いますね。鴎外の「高瀬舟」ではないけれども、ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない。