第2回 坂本香料に、ミキサードリンクの起源を聞きにいく 〈前編〉

2.ホワイトリカーの誕生

 堤野会長によると「焼酎のにおいがきつかった時代、アルコール臭を消すために香料を使い、飲みやすくするようみなさん考えたのが梅割り、ブドウ割りです」とのこと。

 ミキサードリンク(割り材)は甲類焼酎に混ぜる目的で開発された商品です。甲類とは1949年酒税法上の定義であり、正体は、連続蒸留機で蒸留した高純度エチルアルコールに加水し、アルコール度数36%未満に希釈した「ホワイトリカー」などと呼ばれるもの。これはいつからあるのでしょうか。

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ガラナ
(資料・坂本香料株式会社)
 焼酎の歴史は古く、単式蒸留機の発明と蒸留酒の製造は、それぞれ紀元前にさかのぼります。稲垣真美・著『現代焼酎考』によれば、中近東の蒸溜技術が、シャム(タイ)経由で、元の時代(13~14世紀)の中国に渡り、さらに明の時代(1404年)に朝鮮・李王朝から対馬・宗家へ、米や栗を使う朝鮮系の焼酎「焼酒」が贈られました。それ以降、九州・球磨で米焼酎、壱岐では麦焼酎が製造されるようになり、17世紀の甘藷渡来後は、薩摩で芋焼酎が生産されます。これらは、原料を発酵させたもろみを蒸留して取る焼酎ですが、北九州の日本酒の蔵元では、江戸初期から清酒をしぼった酒かすを蒸留して、濃醇な粕取焼酎を製造する伝統がありました。

 本格焼酎は、美しい香りと独特の強い味で、酒好きをとらえて放しません。しかし、甲類焼酎はもともと工業製品であり、飲用目的で創られた本格焼酎とは根本的にちがうものです。

 鈴木博・著『焼酎礼讃』によると、「ホワイトリカー(甲類焼酎)は戦争の落とし子」で、「日本のアルコール製造工業は日露戦争で大きな飛躍をなしとげた」とあります。連続式蒸留機による高純度エチルアルコールの生産は、日清戦争の最中(明治27[1894]年)に、東京・板橋と京都・宇治の砲兵工廠火薬製造所に連続式蒸留の機械を輸入したのが最初。火薬製造に欠かせないアルコールは、明治37(1904)年の対露開戦からわずか2年で15倍の生産量になります。

 とくに台湾を植民地化したことで、廃糖蜜(blackstrap molasses:サトウキビの搾汁を煮詰めて砂糖を取った後の残滓)由来のアルコールを大量に輸入できるようになり、生産が加速しました。

 しかし日露戦争が終わると、需要が減って生産過剰に陥ります。困ったメーカーは、エチルアルコールを水で割った希薄酒精に、香味の濃厚な粕取焼酎を少し混ぜたものを「新式焼酎」「ハイカラ焼酎」などと称して売りだしました。これが、当局の認可を受けた適法製品としての、ホワイトリカーの始まりです。明治43(1910)年のことでした。

 発売したのは愛媛・宇和島の日本酒精(株)で、銘柄は「日の本焼酎」。関東では後に宝酒造となる四方合名会社が「宝焼酎」の名で販売します。四方家は江戸時代、京都・伏見に創業し、粕取り焼酎を製造、みりんや白酒の原料にしていた蔵元です。

 焼酎は、「車夫馬丁の酒」「三方(馬方、土方、船方)の酒」といわれ、肉体労働に従事する人たちに好まれたといいます。重田稔・著『焼酎手帖』によると、新式焼酎は発売とともに「爆発的な人気を博し、全国を席巻した」。「第一次焼酎ブーム」は、大正初期に起きていました。

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