第2回 坂本香料に、ミキサードリンクの起源を聞きにいく 〈前編〉

東京の中小清涼飲料メーカーの、知られざるモノづくりの歴史を探訪するインタビュー・シリーズ。
第2回目は、堤野隆・坂本香料会長に、焼酎割り飲料(ミキサードリンク)についての貴重な証言をしてもらいます。同会長は1932(昭和7)年生まれの76歳で、業界の生き字引といわれる人物。東京の小さな業者が第二次大戦後に経験した、はげしい浮き沈みについて語ってくれました。

1.坂本香料とはどんな会社か

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堤野隆会長
 浅草ビューホテル、かつての国際劇場の裏に立地する坂本香料株式会社は、1946(昭和21)年の創業以来、東京の清涼飲料メーカーに原材料を供給してきた会社です。堤野隆会長にお話をききました。

 「創業者の坂本弥寿雄は、戦中に香料会社に勤めて、独立しましたから、香料に携わって70年以上の歴史があります。さらに創業者は戦前、ラムネの製造会社にいた関係で、飲料会社が顧客のほとんどを占めています」

 香料メーカーとは、植物由来の原料を海外から輸入しブレンドするか、自社で独自に調合・製造して、各種フレーバーを作る会社です。

 「中堅・中小の香料会社は、飲料関係やお菓子などの得意分野がそれぞれあって、棲み分けができていたので、昔は、香料会社で倒産したところがないといわれました」

 清涼飲料に使うための香料は、幕末にレモネードが輸入され、「ラムネ」になった時から、日本に導入されました。クエン酸に香料と甘味料を入れ、炭酸を充填することで、ラムネやサイダーができあがります。

 「最初の顧客はラムネ屋さんやサイダー屋さんでした。昭和27年にバヤリース・オレンジが出ると、清涼飲料業界は便乗して大きく伸びました。私共も、オレンジの匂い付け香料と、混濁によって果汁感を出す乳化香料(オレンジクラウデ)を、外国のメーカーから輸入してみなさんにお配りしながら、バヤリースタイプの製品ができますよということで、ひとつのブームを作ったんです」

 風向きが変化したのは、やはりコカ・コーラの日本上陸です。自社ボトラー網を全国にめぐらせたコカ社の力は圧倒的でした。

 『酒類食品産業の生産・販売シェア』によると、1960年代をつうじて、清涼飲料市場全体は金額ベースで618%の急激な成長を遂げました。生産量でいうと、60年に40万klだったのが、70年には340万kl。その中心は炭酸飲料であり、この時に数量ベース658%、金額ベース1705%という驚異的な伸び。プラッシーやHI-Cなどバヤリースタイプの飲料から、コーラやファンタ、ミリンダなどの大手ブランドによる着色・着香炭酸飲料に主役が移り、中小ボトラーは、時代に取り残されていきます。

 「昭和36(1961)年のコカ・コーラ自由化で様変わりとなりまして、どんどん倒産・廃業が起きました。このままでは中小メーカーは全滅する、何とかコーラに対抗できるものをと、当社がガラナ飲料のベースとなるエキストラクト(抽出)を本邦で初めて手がけ、昭和38(1963)年に大ヒットしました」

 今でも北海道で、甘くて濃いガラナ飲料は根強い人気があります。また、ホッピービバレッジで製造している「コアップ・ガラナ」は、この時代のなごりといえます。しかし、小資本の企業がいくらがんばっても、コカ社にかなうはずがありません。

 「ガラナが厳しくなっていた昭和56(1981)年頃、博水社の田中会長と親しくしていた関係で、ハイサワーの原料調達と商品開発のお手伝いをしました。これが、大手が目をむくほど出まして、単品で60から70億円の売上になりました」

 1980年代以降の、国内市場でのサワー類の伸びが、坂本香料を救ったといえます。結果、同社は「香酸柑橘、つまり、ゆず・すだち・かぼす等の果汁の扱い量では国内一位」になりました。

 「サワーで実績ができ、大手との取引は増えましたが、昔からの取引先である中小の清涼飲料メーカーの数は減るばかりです」
 以上のように、坂本香料は、東京ローカルの清涼飲料会社と戦後史を共にしてきた企業といえるでしょう。

坂本香料株式会社
堤野隆会長
堤野裕之代表取締役社長

本社:
東京都台東区西浅草3-20-12
資本金5000万円
従業員61名
沿革:
昭和21年 台東区北清島町に坂本香料工業所を創業
昭和26年 台東区浅草芝崎町に本社・工場を移転
昭和38年 本邦初のガラナ飲料用エキストラクト製造開始
昭和59年 レモンサワーをユーザーと共同開発
昭和61年 栃木県に新工場を建設

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